2017年1月18日水曜日

文化文明の源

大分時代遅れの人間になっている実感はあるが、ダボス会議での中国習近平氏の演説報道を観てふと思った。氏の演説は中国語だったが、日常会話で英語をかなり使いこなすことは知られている。改めて「言語」とか「言葉」の問題を考えてみたい。昨今は小学生時代からの英語教育が論じられているのか、始まっているのか知らぬ。しかし本件について賛否様々な意見があることは承知しているし、個人的にどちらかと言えば「先ず日本語が先でしょう」に与する方かもしれない。しかし多くの国民にとって長ずるに及んでは、国際語たる英語が必要になることも事実だ。

そこで順序だって考えてみるに、先ずこの世に生を受けて日本で一定年月過ごすとあれば、日本語習得が必須の要件であることは論じるまでも無い。先ずは話すこと、読むこと、書くことの3要件だろうが、これをどこまで学ぶかについて考えると、結構難しいことに気が付く。話し言葉の乱れについては他人を笑えないし、書くことに至っては並みの小学生にも劣る可能性もある。では読むことだけは大丈夫か、と問われると、これも大分危ういものがある。であれば、いっそ国語は中学生程度の国語教育に留めて、高校からは全ての授業を英語で行うなんて考えも有りうるだろう。

おそらく明治初期は高等教育は全学科英語授業だった筈だ。極論かも知らぬが、何につけても現代の有識者の考えることは、抜本的にとか何とか言いながら中途半端でイライラする。これから知識人とされるには、自国語を含め最低でも3か国語くらいは使いこなせなくては通用しないだろう。もっと重要なのは、話す言語がどこの言葉であれ、自信をもって正確に己の意思が表現できるかどうかだ。先に中国のトップについて触れたが、比較するに日本の政治家はご粗末に過ぎる。

総理のことは措くとして、例えば、我が外相も英語は堪能とされる方なんだろうが、外国人と相対するに際して、写楽が意味不明の笑いを浮かべてような顔を見ていると何とかならぬかと思いたくなる。そもそも日本語にしても、当初は唐か宋かもっと古いかもしれぬが、現中国方面から韓半島経由での輸入品ではないか。それを輸入元に分からないような「かな文字」に置き換えるあたりが不思議だが、それでも立派な国語を形成した先人には敬意を表そう。

問題は今後のことである。アニメやラインのスタンプを以て世界に日本文化の発信を考える前に、日本人が国際人になるにはどうすべきか。もっと抜本的に考える必要がある筈だ。

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