2016年12月1日木曜日

言葉遊び

言葉遊びはどこの国にもあるのだろうが、日本の場合マジか洒落か区別できかねるような言葉遊びが公式に飛び交うのだから参ってしまう。国会は田舎芝居かプロレスと当事者が言うくらいだから百歩譲るにしても、マスコミがそこを峻別して報道しないと社会体系が崩壊しかねない。

日本社会が1945年連合軍の占領下に置かれ、7年後のサンフランシスコ条約で独立主権国家になることを大多数の国から認められたとは言え、敗戦国の悲しさ故だろうか、同時に実質的にはアメリカ軍が統治することを認めてしまったことに端を発しているのは確かだ。このことで当時の政治家や我が父母を含む大人を責めてはいけないのだろう。父母は己に比べれば遥かな人物であったし、当時の政治家も現代の諸氏と比較すれば、比べ物にならないくらい識見に富み且つ胆力もあったと思う。

しかし、独立主権は見せかけで、実質米軍の統治下と言う大きな矛盾があったにもかかわらず、その後半世紀以上の長い歴史の中で、政治家は矛盾が露呈しそうになる度に、日本語独特の言葉の綾を使ってごまかし続けてきた。勿論マスコミは矛盾を承知しながら、何の疑念も提起せず自らも政治家の言葉遣いを引用して同調してきている。当然ながら我々国民も、その言葉遊びの大いなる矛盾について気がついてはいるのだが、現実問題として「日本には平和憲法があるのだから何とかなるだろう。」で済ましてきたわけである。

言うまでもなく矛盾(言葉遊び)の根本は「自衛隊」である。「自衛隊」は自衛隊で軍隊ではありません。政治家がそうは言っても、軍隊でないと思っている日本人はいないでしょう。ましてや外国(軍人であれ文人であれ)から見れば軍隊であるのは当然で、道路工事をしているから日本の優秀な建設会社に人間だとは間違っても思わない筈。

それでもこれまでは先輩政治家の努力もあり、憲法の平和主義は何とか守られてきた。しかしもう限界でしょう。戦闘を衝突と言い換えたり、英訳もできない「駆け付け警護」なんて聞きなれない言葉を使ったりして、国民をたぶらかすことはもういい加減にしてもらいたい。

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