2013年12月31日火曜日

どうぞよい年を

いよいよ大晦日だ。今年は経営を代わってもらった会社の仕事が全くなくなって、消滅してしまったこともあり、悔やみを言いだせば切りがない。経営を引き受けてくれた青年は文句も言わずに笑って済ませてくれたが、切り捨てる側にいた若い人達の考え方については、こちら側の年齢故か知れぬが非常な相違を感じたのも事実だ。しかし考えてみると、企業経営の効率化とか競争原理は世間一般の風潮で、たまたまこちらが市場からの退場を求められる側になっていたと言うことだろう。

一方にこのような零細弱小企業があれば、対極に位置する企業があって、経済が成り立っている。その結果日本に好景気の気が沸き起こったとすれば結構ではないか。個人的には社会から弾き飛ばされても、少しばかりの個人ストックと社会保障のお陰で飢え死にするようなことはない。しかしこのような競争社会の影響を被る若い人たちはどうなるのか?総理は「私を見習って再チャレンジしろ」と言いたいのだろうが、その環境を整える政策を真剣に考えているとは思えないのが不安だ。

昔、「空気の研究」で山本七平氏が大戦への突入を、戦前の軍国主義で醸成された空気のせいと指摘した。戦えば負けるとの理性的判断を無視して、多くの国民が、知らず知らずにその場の空気に寄り添う行動を取ってしまった結果である。戦争をおっぱじめた第一の責任は、戦争を指導した政治家や軍人かもしれぬが、空気に同調した国民の大多数にも責任が無いとは言えないだろう。空気に流されやすいのが人間の性とすれば仕方ないのかもしれぬが、今現在日本に漂い始めている空気は喜ぶべきものなのか、憂うべきか。

今日の日経新聞はこう報じている。『「株高41年ぶり、円安34年ぶり… 歴史的値動きの1年 」東証で30日開いた大納会には、現職の首相として初めて安倍晋三首相も出席。「経済はマイナスからプラスに大きく転じた」と指摘、「来年もアベノミクスは買いだ」と強調した。』経済が良くなれば全ては上手く行くとの空気は間違いなく膨らみつつある。経済の好転にケチをつけるつもりは毛頭ないが、戦前軍国主義が拡大した背景にも、最初は一流国家としての経済力が着いてきた自信があった。

しかし軍国主義が蔓延するころには、世界的な大恐慌が襲い、日本も深刻な格差社会が始まった。結果は知っての通りであるが、現代の様相に軍国主義復活の萌芽を危惧する人も少なくない。政権担当者はそんな馬鹿なことはあり得ないと言っても、空気は恐ろしい。危惧する人は天皇陛下を初めとして年寄りばかり、笑い飛ばす方は戦争を実感していない人ばかり、も少し気になるところだ。

一例を挙げると、テレビにもよく出る勝谷誠彦氏なるちょっと変わったジャーナリスト風コメンテーターがいる。彼は昨年までは小沢一郎氏の熱烈なファンだったが、最近は安倍総理を持ち上げることしきりだ。それはどうでも良いのだが、自衛隊賛美の余り、中韓両国についてのコメントで、自衛隊軍事力の優位をいつもひけらかしている。実際に強いかどうかは知らないが、暴力装置の自慢をしたくなるような雰囲気は気分の良いものではない。

最後まで愚痴っぽい話で済みませんでした。本当は無難でよい年でした。
皆さま、どうぞよい年をお迎えください。

2013年12月30日月曜日

年の瀬の決まりごと

門松の準備が始まる頃になると、我が町では「火の用心の夜回り」が始まる。今年も夜8時を回る頃になるとカチン・カチンと拍子木の音に続いて「火の用心」が聞こえる季節になったが、何故か拍子木の音にせよ掛け声が弱々しい。不思議に思っていたら婆さんが教えてくれた。喧しいと苦情を言う人がいるので意気が上がらないらしい。昔は子供が駆り出されて廻った記憶があるが、近年大都会の学習に勤しむ子供たちにはそんな雑事に患う暇はないらしい。

爺様たちがやっているのだから、1杯引っ掛けて景気よくやってもらった方が地域の為になるのに可哀そうとのこと。戸主であるにも拘らず地域のボランティアに一切参加しないので、代わりを婆さんが勤めているが、流石に夜回りは免除されているみたいだ。年末の恒例行事も年を追うごとに変わっていくのは仕方ないことなんだろう。信州の出身なので、年末は正に冬籠り準備の総仕上げといった印象が強い。

今は昔と比べると嘘のように便利になってしまったので、薪炭を物置などに積み上げることも無く、漬物や餅を蓄える必要もない。信州であっても人間の住むところには100%近く舗装道路が完備し、あらゆる食品が揃う大型店が街の中や郊外に立ち並んでいる。冬になると雪に閉ざされてアクセス不能になる人はごく限られているだろう。そんなことを考えると、我が町の夜回りの不必要を唱える人の気持ちも分からなくはない。きっと近い将来、来年あたりには無くなってしまう運命かもしれぬ。

人は頭を使って、科学技術による利便性を追求してきた。昔は冬場で燃料や食料を失って亡くなる人がいたに違いないが、現代は社会インフラ整備が進み、輸送手段の格段の向上でそういった心配は殆ど無い筈である。代わりに電車や自動車を利用していても、天候の悪化で事故が多発して亡くなる人が出る。仕方ないことかもしれぬが皮肉なものだ。どんなに知恵を出したつもりでも、人間の力はたかが知れているのかもしれぬ。所詮は短い命で、結局は無に帰すのが定めだろう。

短い現世を何とか無事に済ませたいと、年に1度厚かましくも神仏に願う季節である。日本人以外にも同じ風習があるかは知らぬが、我々ほど厚かましい願いをするのはあまり聞かないようにも思う。仏教は仏徒が勝手に思うことが即ち教義の便利さがあるようで、現世利益を約束してくれる宗派もあるようだ。キリスト教やイスラム教にはそんな便利な教義はないと思うが、実際は分からない。

なんと言っても日本は、信教の自由が完全に保証されている国である。総理大臣が戦争神社に参拝しようと個人的には全く自由だ。友人知人には異教徒が沢山いる。我が家は家系的には曹洞宗であるが、個人的には現世利益を願って八百万の神を頼りにしている。血は争えなくて、娘が大学受験の際はお守りを10個以上持って行ったとのこと。何となく、ここ四半世紀以上年末か年始に伊勢神宮参拝をしてきた。

そろそろご勘弁願おうかと思っていたら、来年は孫の高校受験があるので今年は是非行ってくれとのこと。では今年で打ち止めにしようと思ったら、別の孫が「再来年大学入試になるので、お祖父ちゃん、その時までは行ってほしい」と伝言してきた。年寄りの気持ちを萎えさせず、むしろチアアップしてくれる孫の気持ちが嬉しい。

2013年12月29日日曜日

言葉の力

今朝婆さんが言った。「最近ニュースで報じられる政治家の発言は教育上宜しくない。マニフェスト違反とか公約に無いことなんて難しいことじゃない。誰が聞いても嘘だと分かることを喋って、恬として恥じないことでもない。それに引き換え、最近の若いアスリートの発言は子供たちがとても参考とすべきものだ。」何を言いたいかと聞いて成程と思った。

スポーツ選手は常にファンあっての自分であること意識して、インタビューを受ける際は必ず「ファンの皆様の声援のお陰とか、力で・・・」とかを枕に持ってくる。アスリートが手にする栄冠は一に掛かって個人の努力の賜物だが、それ以前に自分の存在が誰に支えられているかよく知っている。引き換えに政治家を見てごらんなさい。彼等こそ選挙民にへこへこ頭を下げて、1票を投じて貰えたからその地位にいられる訳でしょう。

それがバッジを着けた瞬間に綺麗に忘れ、俄かに上から目線になって、己の考えが全て正しいと錯覚し始める。仲井間知事の140万県民を代表してを意識したのかどうか、とんでもなく失礼な話で、心の根本が腐っているので教育上問題と言うことらしい。言われてみればそうかもしれない。参考までにもう一度よく見てごらんなさいと言われたので、少し古い映像を検索した。

一昨年のプロ野球開幕戦、震災のために遅れて2011年4月29日となったKスタ宮城での嶋基宏嶋選手会長の名スピーチである。先日の全日本フィギュア選手会後のオリンピック出場選手発表時にも感じたが、スポーツ観戦をするファンと選手の気持ちの繋がりには感心することが多い。嶋選手のスピーチ後半を再現してみたい。これは開幕戦を勝利で飾った勝利投手田中将大の後で発したもので、リアルタイムでは見ていなかった。

「・・・何のために僕たちは闘うのか、ハッキリしました。
この1カ月半で分かったことがあります。それは誰かのために戦える人間は強いということです。
東北の皆さん、絶対に乗り越えましょうこの時を。
絶対に勝ち抜きましょうこの時を。
今この時を乗り越えた先には、もっと強い自分と未来が待っているはずです。絶対に見せましょう、東北の底力を。
本日はありがとうございました。」
http://www.youtube.com/watch?v=EoX5usejKB4

ワンフレーズごとに湧き起こる歓声がもの凄い。定評ある小泉純一郎氏の演説への歓声も凄かったが、演出されたものとは全く違うものを感じる。相当に練りに練って作られているし、コミッショナーからの入れ知恵とさえ言われたりしたのは、それ程素晴らしいスピーチであった証拠だろう。彼一人ではなく、最近のスポーツ選手の言葉には知性を感じたり、上手な言葉遣いと感心するケースが少なくない。

婆さんはオリンピック招致委員会の最終プレゼンでは、佐藤真海選手のスピーチが一番だと言っている。確か英語だった筈だが、何語で話そうと内容が聞き手の心に響くのは、言葉に話し手の魂が込められた時だろう。文案を誰が書こうと関係なさそうだ。

2013年12月28日土曜日

住んでみた日本

少なくとも池袋の街はすっかりお正月休みモードである。プールもガラガラだし街を歩く人が極端に減った。東京に住む人の如何に多くが出稼ぎモードであるかが分かるような気がする。でも例年より1日早い冬休みを利用して、故郷に帰るのは日本人の良いところだ。景気を反映してか、海外旅行に出かける人も多いようだが、それはそれで結構だろう。「絆」と言う変な流行言葉があるが、血の繋がりを大切にする心だけは大事にしたい。

朝テレビで面白い番組をやっていた。普通は政治家やら新聞社の編集委員やらが出演して、分かったようなことを偉そうに言う時間の筈だが、そんなものより遥かに面白い。日本に住む外国人の街頭インタビューを網羅したもので、服装などから類推するに1年かけて取り溜めたようだ。質問も多様で、街角で答える外国人は若そうな人が多く、流暢に日本語で答えているところからすると、一定期間滞在している人を中心に選んでいるようだ。

もちろん日本が嫌いと言う人はいない。食いものは美味いし、観るところも沢山あって文化的にも進んでいる。聞いていて少し気恥しいが、休日の朝に悪い気がしない。但し、彼等には不思議なことが沢山ありそうだ。思わず笑えたのは漢字の話。中にインタビュアーに向かって「ラクダを漢字で書けますか?」聞き返した青年がいた。聞かれたのはテレビ局のアナウサーだったと思うが、書けなくて、逆に漢字を教わる立場に。この青年は日本人女性と結婚しているらしく、次に子供の名前を漢字で書いて示していた。

この青年とは別人だったと思うが、漢字は音読みに訓読みがあり、覚えるのが大変だが面白い。更にそのどちらでもないのがあるのも不思議です。例えば「今日」はどうすれば「きょう」と読めるのでしょう。「明日」は明るい人ばかりでないと思うのですが、明るい日が「あした」も日本ならではです。言われてみるとご尤もだ。明るい明日は安倍総理に仲井間知事さんとその取り巻きだけよ、と大笑いしてしまった。

在日7年目で自らサラリーマンと名乗ったドイツの青年「会社で会議を開く時、全ての議題は既に結論が決まっているのが日本。そのために私は常に根回し役をしています。気持ちの通訳です。」ひょっとすると車屋か薬屋か、社内公用語が英語であれドイツ語であれ、たった7年で見事に我が国の特質を理解していて微笑ましいが、この慣習を権力者が恣意的に濫用し始めると碌なことにならない。ドイツ人の青年が内閣や防衛相の諮問会議のことを知って、皮肉を言っているのかと思ってしまった。

我が家の感想は、日本語を学ぶ外国人の方が正しく美しい日本語を学ぶ努力をしているのに、肝心の日本人が正しい日本語の用法を忘れかけているのが問題であること。最近「うちゅくちい国日本」は聞こえてこなくなったが、リーダーを自称する総理の発言は外国人にどのように聞こえるのだろうか?生粋日本人の小生にさえ意味がよく分からないのだから、粘り強く説明しても一層不信感の増幅にならぬかと心配でもある。

2013年12月27日金曜日

無神経の度し難さ

年末なので散髪に行った。頭長から後頭かけては砂漠のオアシス程度にしか毛髪が無いので、そのまばらな毛が不揃いの伸びかたをするので余計みっともない。どうしても月に一度は散髪せざるを得ない。池袋に行けば千円のクイックサービスがあるのだが、40年近く通っている床屋が事務所の向かいで、毎朝のように挨拶を交わしていると他店には行きにくい。それでも最近は丸刈りに近く、鋏をほとんど使わずにバリカン中心なので、一時よりやや安い3千3百円で仕上げてくれる。

夏は散髪するとすっきりするが、今はとてもじゃないが寒さが頭と首筋から余計にしみ込んでくる。山用やスキー用の帽子も持ってはいるが、平日はスーツ姿でもないのに何故か被る気にならない。つまらぬ拘りの一例だ。既に小中学校は冬休みに入ったのだろう、ランドセルを背負った児童姿のが朝の景色から消えている。多方の人は今日で仕事納めの筈、サンデー毎日なので納める仕事も無いし慰労しあう同僚もいない。

幸い昨夜は気の合う友人が誘ってくれて忘年会を開くことが出来たので、これを以て今年の締めくくりを無事済ませたことにする。友人は齢はそんなに変わらないのにまだ元気に働いている。「私が政権を担当したら、現在の年金制度をチャラにして年金給付開始年齢を80歳に引き上げたい。あんたも困るだろうが、五体満足なのだから働きゃいいのだ。」実に説得力のある説教を食らってしまった。序でに「来年はあんたに仕事をさせてあげる。」との有難きお言葉、沖縄県知事同様良い正月になるかもしれない。

彼が本当に言いたかったのは、民主党政権時代の年金改革に対する不満だったようだ。当時社会保険庁を廃止したように恰好だけはつけたが、事が消えた問題に矮小化されて、なんら本質的な改革にならなかった。改革の名のもと役人を焼け太りさせていることが多すぎる。それやこれやで毎度のお話の中で、景気の現状についても面白い話を聞かせてくれた。マスコミ批判で、今年の暮れは少し景気が良いような報道が多いが、全くのインチキ(仕込)報道とのこと。

彼の友人が勤務するヨーロッパの高級ブランドショップでは、プチ高級品の売れ行きが伸びているなんて事実は全く無いそうで、むしろ売り上げ計画が未達なりそうとのこと。下町の飲み屋の女将さんも、帰りに拾ったタクシーのドライバーも景気回復の実感を否定して、社会上層部にすり寄るマスコミ報道を非難していた。小生にとっては楽しい忘年会であったが、果たして沖縄県知事が言うような、良い正月を迎える日本人は全体の何割になるのだろう?

仲井間知事もマスメディアを前にして傲然と言い放ったが、この発言に傷ついた沖縄県民の割合も知りたいものだ。総理の「中国や韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは全くありません。」も同じ伝だろう。多分に自戒も込めてだが、つもりが無くて他人を傷つけることほど始末に負えないものは無い。

2013年12月26日木曜日

電力エネルギーの話

高校同期生100名強で構成しているグループメールに参加している。最近ネットワークの利便性の裏に存在する社会的ネットワークの有害性が問題になっていることとも関係あるのだろう。以下の告知が出ている。「2014年5月28日(水)午後3時(予定)を持ちましてYahoo!グループはサービスを終了させていただきます。」多分残念がっている人が多いことだろう。我々の場合も、同期生の結束が強いので、同窓会関係の連絡には重宝していたので残念である。

もう何年も利用してきたが、終わり間近な今になって、このメールのやり取りで同期生委の意見を二分する論争が始まった。きっかけは、ある友人がソーラー発電に力を入れている桶川市に視察に赴いたことをグループに発信したことにある。彼は長野市在住の元銀行員で完全な事務系だが、リタイアしてからは、環境問題に関心を持って地域活動していることを少し前から発信していた。それを読んだ別の友人、彼は完全な技術系の出身でIT産業の草分け的企業人で、リタイアして専らネット投資を楽しんでいて、企業活動と経済問題は得意分野である、がソーラーは原発の代替になりえないと反論を書いたのだ。

そしたら、同じ大学の同じ学部の出身で、やはり1部上場企業出身の技術者(完全リタイアメント)が反論の反論を書いた。それにつられたのか、日を追って何人もの意見が掲載され始めている。何れも高学歴の上に社会経験も豊かなので、社会問題になっている社会的ネットワークの、言論による集中攻撃とは全く異なるバトルで、それぞれが確信的に堂々の論陣を張っているので、実に興味深く読んでいる。小生も一家言を持って参戦したいと考えているが、知見レベルが低いので躊躇いを感じてしまっているところである。

エネルギー問題は国家の大事であることに違いはない。靖国神社に戦没軍人を慰霊する暇があれば、政府高官にも我が同期生と同じくらい真剣に意見を交わして、知見を積み上げる努力でもしてほしいくらいである。同様に我が家にとっても大事なことであることに気がついた。と言うのは今日が東電の検針日で、郵便受けに使用料のお知らせが投げ込まれていたからである。つい数日前、隣の洋食屋で500円の昼定食ビーフシチュウ(これが又美味いのだ)を食いながら、店の親爺の愚痴を聞いたばかり。

「500円の昼飯を売って電気代にもならないだろう」(1日に客が20人も入れば御の字に見える店だ)と水を向けると、よくぞ聞いてくれたとばかり「どんなに暇でも月に5万円は必要、夏になると8万円を下ることはあり得ない。」とのこと。その記憶があって我が事務所の検診結果を見ると「12月分:使用量213kwh:料金:5800円となっている。4年目になる事務所だが今まで5千円台との記憶が無い。割り算して単価を出すと27円以下小数点が割り切れない。

早速東電に電話をすると、コールセンターのお嬢さんから爽やかに返事が返ってくる。原発事故後料金を改定してはいません。100キロ以上と以下では使用量に応じて単価が変動します、以下は18円、以上が25円です。「では単価が27円を超えるはずがないのでは?」と尋ねると「燃料費調整が加算されていす。」複雑なことを理解する能力に欠けるので、そこで礼を言って切ってしまった。ああ言えばこう言う。いつか聞いた言葉だ、所詮凡人には説明しても分かりっこないと思っているのだろう。

2013年12月25日水曜日

義理を欠いて映画を見に行った

年末になると年賀状を書かなければいけないと知りつつ、ここ数年はパソコンでお手軽に作った年賀状に、宛名書きもパソコンソフトで済ませ、暫く机の上に載せて、誰に何を書き添えようかと思いながら今日に至ってしまった。時間が無いわけでもなく、下らぬことをする時間はあるのに、肝心のせねばならぬことをさぼっているだけのことだ。

結局どの人にもひと筆も付け加えること無しに投函してしまった。ここ1週間以上60通の年賀状書きで四苦八苦している婆さんから「そんな年賀状なんか出さない方がましよ。」怒られている。言われなくても分かっているので、いっそ年賀状自体を止めてみるのも一つの考えかとも思うのだが、なかなかそこまで踏み切れない。

中途半端、優柔不断の極みで自分でも情けない。読者の中にも受け取られる方がおられと思うので、予めお詫びしておきます。こういった悪いことになると思い切りがいいのが困った性格だ。朝一で年賀状を投函して、カレンダーを来年分に掛けなおし、燃えるごみの日なので古いカレンダーをゴミとして処分すると、急に気分がすっきりした。

気分が良いので久しぶりに映画を見に出かけた。多分今年2回目ではないかと思う。中高生時代、元日の夜に両親公認で映画を見に行くことが許されていた。
一寸その時に似た晴々した気分で、朝から日比谷に出かけ、10:10上映開始の「鑑定士と顔のない依頼人」を観ようと10時前に映画館に着くと、既に長蛇の列。外にいる係員が「残り30席ほどで満席になります」と叫んでいる。

平日の朝っぱらから暇老人が、ここにもこんなにいるとは思わなかった。僥倖を頼りに列に着いたが、案の定あと5、6人のところで満席となってしまった。このまま帰るのも癪なので、他の映画館を覗くと10時半の上映開始でトム・ハンクス主演の「キャプテン・フィリップス」があった。これも大分宣伝しているので良いかなと思って、こちらを見ることにした。

トム・ハンクスもフォレスト・ガンプの頃に比べると随分年取ったようで、デブの小父さんになっていたが好い役者だ。ソマリア沖で海賊船に襲われたアメリカ貨物船の船長の役だが、実話に基づいた話のようだ。確か日本もこの近辺に自衛艦を出していたのではないだろうかと思いつつ観たが、帰って調べると、陸海自衛隊に海上保安庁まで協力して2009年から現在までずーっと派遣が続いている。

映画の話は正にその時期09年に起きた事件らしい。ソマリアなんて国を想像することも出来ないが、この映画から想像すれば、日本は既に地球の裏まで戦争に行っていることになる。映画としてはスリル満点で、先ず海賊側の役者が迫力に富んでいる。勿論アメリカ海軍が製作協力しているし、面白くはあるが、考えさせられるところも大いにあった。

2013年12月24日火曜日

危なっかしいことばかり

先週17日だから既に1週間前のことになるが、内閣が外交・安全保障の基本方針となる国家安全保障戦略(NSS)を初めて策定し、これを支える防衛大綱中期防衛力整備計画と共に閣議決定した。との報道があった。今度の内閣は横文字が好きなようで、NSSの他にNSCなんてものもある。どのくらいの国民がこの横文字を必要とし、また理解できているのだろうか。

報道の中に、NSSは「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を基本理念に掲げ、愛国心に関する条項として「我が国と郷土を愛する心を養う」という表現を盛り込んだ。とあったので一度見てやろうと思っていたところ、昨日の南スーダン国連PKO派遣自衛隊から同じ派遣韓国軍への機関銃弾提供の話が飛び出した。天皇誕生日で、陛下の憲法を遵守して平和を願う思いに、胸熱くなる思いもあった。似たような感じを持った国民も少なくない筈の目出度い日に、政府は何を考えているのだろう。

とても国民の意を戴しての決断には思えないが、国民がこの政府を選んだのも事実で、憲法に定められた行為の範疇であれば、誰にも阻止は出来ないのだろう。婆さんは頭から湯気を立てんばかりに怒っている。先週の火曜日の発表の際、気になっていたのは「愛国心」云々の件で、いつかはブログでイチャモンを書こうと思っていたので、今日はそのNSSなるものを読んでみた。

普段役人が書いた文章を読んだことはないが、読みもしないで文句を言ってはいけないから仕方ない。先ずこの方針は、今後10年程度に亘り外交や安全保障戦略の基本とすべく位置づけられている。A4版32ページの読み物だが、安倍政権が強調するお題目「積極的平和主義」「戦略的外交」を正当化するために昨今のニュース解説を寄せ集めたつまらないものだ。

先ずは、日本が平和で発展していることを、恰も自分の手柄の如く誇らしげに述べている。後はお定まりの「安全保障環境の一層の厳しさと、複雑かつ 重大な国家安全保障上の課題」即ち中国と北朝鮮を悪玉にして、沖縄をある程度犠牲にしてもアメリカには協力せざるを得ないことを説得したいらしい。そして最後に「社会的基盤の強化」国家安全保障を身近な問題として捉え、その重要性や複雑性を深く認識することが重要なので、愛国心教育が必要との論法である。

子供じゃあるまいし冗談でしょう、主権のありよう主義や主張の違う国と喧嘩をしないように、上手に付き合う方法を考えるのが大人でしょう。世相を複雑に考えろだと!まっぴら御免だ。序でに言うと、昨日の騒ぎのもとになったと思われるこんな事が書かれている。
(8)防衛装備 ・技術 協力
平和貢献・国際協力において、自衛隊が携行する重機等の防装備品 平和貢献・活用や被災国等へ の供与(以下「防衛装備品活用等」という。)を通じ、より効果的な協力ができる機会増加している。
http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/guideline/pdf/security_strategy.pdf

2013年12月22日日曜日

一陽来復

今日は冬至、半年先の夏至の頃に比べると5時間近く日が短いらしい。朝の6時でも暗いし、日中は陽が射していても風が強くて寒い。今日は相応しい天気かもしれぬ。この日に柚子湯に入ったり南瓜を食べる理由は分からないが、冬至を祝う習慣は古来から世界中にあるようだ。確かに今日がどん底で、明日から日も長くなるし運気も変わると思えば、誰でも祝杯でも上げたくなるだろう。小生も本日は気分だけでも、一陽来復にあやかりたい。

来福でなくて来復だから若さを取り戻すと言うことかな。寒い中プールに行って一人で考えた。何故か今日はプールが空いていた。寒くて出不精になる人が多いのか、年末で忙しいのか、理由は様々だろう。寒さだけであれば、こちらも相当寒さには弱い。むしろ寒いの嫌で、湯治場に行くようなつもりでプールに行く意味もあるのだから、来ない方が損のようにも思う。秋ごろまではプールに入る際、ヒヤッとした感じがあったが、最近は最初にぬるま湯に入ったような感じがする。

プールの監視役のお兄さんに水温を聞いたら、水温が30.8℃、室内温度が30℃だった。差が無いに等しいのだが、そんな感じがするのは何故だろうか?物理が得意の人に解説して頂けるとありがたい。丁度2時間くらい泳いだり歩いたりストレッチをしたりして、締めくくりにミストサウナで大量の汗を出すと身体が程よく暖まる。寒風吹きさらしのなかを30分ほど歩いて帰ってくるのが気持ち良い。多分に健康的だと思うのだが、面白いもので、似たようなことを毎日の習慣にしているご同輩が、風邪を引いたようで調子が悪そうだ。

昨日は来ず、今日は来るには来ていたが、酷い風邪声である。プールに入らずストレッチとミストサウナだけで早々に引き揚げていった。小生同様、普段はパソコンに向かっていることが多いと聞いているので、明日は我が身とならぬようにしなければいけない。しかし、俺だったらあんなに酷い状態でプールへなんか先ず来ないだろう。奥さんが居ないと聞いているが、どんな生活をして何を考えているのか、他人様の考えることは想像できない。

年末と言えば、仕事をしている頃はやたらと忙しかった。、役所絡みの仕事も多かったので、毎晩のように予算関係の情報取りと、担当者への差し入れ。11月下旬からだったろうか、お歳暮のチェックや年賀状のチェック。いろんな人との忘年会もこなさなければならない。29日頃政府の来年度予算が上がるとホッとしたものだ。今年は人からコンクリートへの時代に戻り、大分昔の姿に戻りつつあると聞くが、それでもあんな時代には戻らないだろう。

打って変わった現在の姿、することが何もない。年賀状でさえパソコンでおざなりに作って終りで、一言書き添える気にもならない。これで一陽来復を期待するのは虫が良すぎるだろう。

2013年12月20日金曜日

テーマ不足

明後日はもう冬至、1日が短い。先月から今月にかけて暫く乾燥した状態が続いていたが、今週の後半から雨が降り始め今日で3日目になる。その割には肌のヒリヒリした感じが直らない。冬は夏と違って、雨が降っても何となく乾燥しているような感じだ。雨は仕方がないが、明日からは寒気の流れ込みに風が加わるそうだ。タイヤのコマーシャルで志賀高原の冬景色が流れた。懐かしくは思ってもスキーに出かけるまでには至らない。

昨シーズンもスキーを履いたのはたった1日半だけ。少し元気を出さないと、今シーズンも似たようなことになりかねない。先日の同窓会で、年末にスキーに行くと言っていた友人が数人いたが、元気を羨ましく思う。小生の場合行くとなるといつも一人なので、何時でも行ける便利さの反面、エイ!と決断する必要がある。これが面倒くさくなってくるのも年齢のせいだろう。規則正しい生活リズムに乗っている方が楽なのだ。

このところブログの種に窮して、猪瀬氏の問題を2日に亘って書いてしまった。直近の問題を取り上げるのは、なるべくしない方が良いとは知りつつも、マスコミの尻馬に乗った形で、少し反省すべきだと思っていた。そしたら今日、関連して興味深い意見を発見した。現代は思ったことをすぐ喋る人間が増えている。インターネットのツイッタ-とかラインなんかが典型的な例で、これが付和雷同を増幅して、結果的にいじめ等に結びついている。

まだ、一般の日本人がインターネットやパソコンにつながっていなかった時代には、思うこととしゃべることの間には、当事者が特に自制するまでもなく一定の時間差があった。言われてみるとその通りで、神輿担ぎの掛け声でもあるまいに、ある種の声が脳に入った途端に、間もおかず応ずる声に碌なものはあり得ないだろう。何かを思うことと、それを表現することの間にはしかるべき時間が必要であるとのこと。
 
頭の中で考えたことを、その場ですべて声に出して良いのは、幼児と独裁者だけだ。ふつうの人間は、自制しなければならない。と書かれていた。インターネットによるコミュニケーションの到達範囲はとてつもなく広がっていることを自覚し、自分が責任持てる意見になっているかどうかを、強く意識する必要があることを痛感する。結論的には益々ブログの種に窮するが仕方あるまい。

2013年12月19日木曜日

猪瀬都知事辞任会見を観て

東京にも初雪予報が出されていたが、結局は雪にならず冷たい雨が降り続いた。昨日は何故か身体を動かすのが億劫になって、習慣にすると決心したつもりの昼のウォーキングをさぼってしまった。こんな時に限って昼飯をいつもよりしっかり食べたりして、厭な性格だ。反動があったせいか、今日は午前中から小雨の降りそぼる中を1万歩をしっかり歩いて納得した。やはり身体は日常的にある程度動かすことが精神的にも良さそうだ。

精神的には爽やかでも適当なブログのテーマが思い浮かぶものではない。
朝から外出してしまったので、事務所でゆっくりニュースやメルマガをチェックする暇が無かった。夕方帰って、午前中行われた都知事の辞任会見をパソコンでチェックした。猪瀬氏も昨日までと打って変わって随分爽やかな顔で応対をしている。記者との応答で「政治家としてアマチュアだった」をしきりに強調している。

ご本人は謙虚さで言っているお積もりのようだし、プロ政治家石原慎太郎氏の操り人形だったことをはしなくも露呈しても、その方が都民の同情を得られると思っておいでのようだ。しかし400万人を超える都民はまさかアマチュア政治家とは思っていなかったろう。少なくとも猪瀬氏が抱えるスタッフや副知事の経験を含め、十分プロとして通用すると思って投票に及んでいた筈だ。この発言を投票した人たちがどのように受け止めるか伺ってみたいものだ。

前回の選挙で、私は確か「鈴木寛氏(民主党)」の名前を書いたように記憶するが、彼の方が政治家としての経験からすると少しプロに近かったかもしれない。しかし民主党員と言うだけでも限りなくアマチュアに近いので、彼が当選したとしても、遅かれ早かれ似たような運命になったかもしれない。私にはアマチュアが何故いけないのか理解できない。

そもそもプロの政治家なんて聞くと昨日のブログに書いた通り、嘘をつくことに何らためらいを感じない人間のように思えて全く信用できない。確かにアマチュアが行政のトップに立つと、嘗ての美濃部都知事や田中長野県知事みたいに、わりと早い時期にプロ政治家側から総攻撃を受けて失脚している。今日の記者会見でも、最後の方でTBSの記者が質問した。「徳洲会マネーは政界に広くばら撒かれているのは衆知のことですが、知事一人が糾弾されたことについてどう思われますか?」

彼は「この1か月何を考えていたか?」と余計な枕を並べたので、知事は肝心なことについて一言も触れなかった。このことは実に残念だ。確かにプロからすると、アマチュアにオリンピックに向けて様々な利権を独占させて堪るか、の思いもあったろう。知事の方にも革新の意気に燃えたかどうか分からないが、只でも傲慢で独善的傾向が強く協調性が無いと評される性格だ。俺のやりたいようにするとの傾向が強く出ていたに違いない。

徳洲会事件が限りなく広がるのを恐れたトカゲの尻尾説も根強いし、前知事が悪いようにしないからと因果を含めた可能性もあろう。一方では、辞任しても特捜が告訴状を受理した以上、事件をうやむやにするわけにはいかない。猪瀬氏への追求だけはまだ続くとの見立てもあるそうだ。既に興味は次の都知事選だが、既にアマかプロか判然としない名前が沢山出てきた。
どうなることやら?

2013年12月18日水曜日

嘘つき

この怪しげなブログも、見知らぬ方が読んでくださっている可能性は十分ある。友人知人ばかりであれば笑って済ましてもらえることでも、知らない方はまともに受け止められるだろうから、余りいい加減な事を書いてはいけないと多少自覚はしている。なるべく自分で見たこと考えたこと、個人的な思いを書いていれば、何か問題が起きても自己責任で処理がつくので、そうしてきたつもりでもある。

それでも他人に迷惑な事を書いて、婆さんにこっぴどく怒られて全文削除をしたこともある。婆さんに言わせると、それにも懲りずに書くのだから救いようがないそうだ。しかし当方としては、それ以来書き方にはかなり注意して、なるべく余計な事を書かないように気を使っているつもり。但し、毒の無いことばかりではこちらのストレス解消にならない。思いの丈のどこまで書くかは微妙なところだが、嘘だけは書かないつもりである。

嘘をついたことは1度も無いと言い切れるほど偉くはない。そもそもが職業広告屋である。宣伝広告の類を丸々信じる人はいないだろうし、普通の感覚からすれば、若干でも真実があれば良しとしたものだろう。広告に莫大なカネを投じているスポンサー側も勿論承知のことで、広告には測定して数値化することが難しいが、効果があることだけは分かっている。広告屋の言うことなど殆ど信用していないが、長年培ったビジネス経験から広告を止める訳にいかない仕掛けになっている。

まるきり狐と狸の化かし合いの世界で40年近く営業してきたわけである。これを俗に虚業と言うのだろう。それで身に着いたのが「都合の悪いことを言わない」手法。これも一種の虚偽であるのは違いないが、嘘を言うのに比べると精神的に大分楽である。それでも知っていることを言わないのも結構つらい。余計なことを知らないのが精神衛生には一番いいのだが、広告屋ともなるとそうはいかない。何でも知っていると思ってもらわないことには、広告なんか売れるものではない。

そんな経験を踏まえて世の中を見ていて思うことがある。例えばオリンピック招致委員会の最終プレゼンでの都知事や総理の演説。裏ではきっと広告屋が大活躍の筈で、相当念入りな仕込がされているのだろう。質問を含め、かなり巧妙に舞台回しが出来ていた。誰もが嘘を言わない原則を崩さないよう配慮されていたように思う。しかしプレゼンターとなった知事や総理にその意識がどの程度あったかが疑問である。結果的に汚染水関連では、嘘を言わされたりしている。

政治家とは「嘘」を平気で言えるタフな神経を持たないと務まらない職業かもしれない。その資質だけからすると、総理の方が上で、知事さんは苦しそうで見るに忍びない。

2013年12月17日火曜日

日銀短観発表

昨日発表された日銀短観(第159回全国企業短期経済観測調査)によると、日本の景気は4期連続して改善され、大企業だけではなく中小企業の業況判断が21年ぶりに非製造業も含めプラスに転じた。と報道されている。ニュース映像は勿論それに見合う形となって、デパートでも高級品からプチ高級品の売り上げが伸びてきているとか、若いカップルが「収入が増えたので一寸贅沢をしたい」なんて言っている。

マンション等の不動産も売れ行きが順調のようだし、飲食店のテナントが減っていた商業ビルも、交際費課税見直しの動きにつれて埋まり始めているそうだ。
たまたま昼間用事で銀座に出向いたら、築地に事務所を構える友人も言っていた。民主党政権下で灯が消えた状態だった築地の高級料亭の前には、毎晩黒塗りのハイヤーが横付けされ、完全に何かが息を吹き返している。官房長官も、景気の回復が徐々に地方に及び始めたと仰っている。

株価も比較的高い水準を維持しているようだし、輸出も好調、車は国内でも売れ行きが良いらしい。このように書いてみると、昨日見たり聞いたりした話は結構なことばかりではないか。残念なのは我が身に当てはまることが一つもないことだ。婆さんは不貞腐って「そんなの3月までのことよ。4月から消費税が上がるから見ていなさい。野菜なんかの買回り品の値上がりが半端じゃないんだから。この灯油だって1950円もしているのよ。」

「一般的に見て、給料がそんなによくなっている筈はありっこない。」娘二人も主婦だし、親戚や友人を含めて婆さんの情報ネットワークは普段から恐るべき広がりを持っている。今は師走の半ばで、お歳暮のお礼やら、喪中はがきを貰ってのお悔みやら、情報交換の機会がより増えるシーズンでもある。長電話を駆使した婆さんの景気観測は、なかなか厳しいものがある。一方こちらは、年金暮らしで、特にしたい事や買いたいものが無いのを幸い、倹約を旨とした生活に馴染んでいる。

たまに会話を交わす相手も殆どこちらと似たような浮世離れしている連中なので、景気の動向なんかは話題になり難い。まぁ、娘の家族のことなど考えると日銀短観を信じてやりたいのだが、連れ合いの言うことにも一理あるかもしれぬなんて思ったりして。

実は先日高校同窓会で聞いた講演の中で、超電導の研究では日本随一とされる北澤宏一先生が面白い事を仰っていた。曰く「経てものはですね、科学計算に基づいて将来予測をする場合、良くなると答える人が半分くらいと悪くなると回答する人が同じくらい必ず出てきます。回答が一方に偏らないのが経済というもので、いつの世でも儲ける人と損する人の両方が出るようになっています。」「私は、今後原発の停止状態が継続することで日本の景気は良くなると思います。」と締めくくられた。

日銀総裁を含め政治の世界でも、景気について尤もらしい議論が続くが、先生から見ると「何を下らぬことを言っているのか。喝!」と言うことかもしれぬ。

2013年12月16日月曜日

年の瀬や 水の流れと 人の身は 其角

60歳代後半からは12月も半ばを過ぎるといつも虚しさを感じてしまう。「今年も何もせずに終わるなぁ」も考えてみれば当たり前の話で、人間にはそう多くのことが出来る筈も無い。普通に3度の飯を食って生きているだけでも有難いと思うべきかもしれない。70歳を過ぎれば古来稀としたものだから、身体特に五感の衰えを自覚して、過去を悔やんだり来年のことなど考えない境地に至りたいと思うのだが、なかなかそうはいかない。

不満を抱いて年を越すのは感心しないので、今年し遂げたことで満足すべきことを探してみた。先ず大した病気をしなかったことだ。一時腰の調子が随分悪くて密かに心配もし、それなりに気を付けたせいか、最近は快適とはいかないまでも、存外調子が悪くない。来年も1日1万歩目標の歩行を続けてみたい。2番目はやはり山歩きだ。今年で3年目になるが年間10回の山歩きも達成できた。毎年恒例になったが、首都圏の里山から始めて、トップシーズンには3千メートル級の山を縦走し、11月末に又近隣の山で締めくくることが出来た。
但し、来年は回数を減らして里山歩きをメインにするつもり。

3番目は出雲大社にお参りしたことかな。4番目は読書、読後感をチェックしてみると19冊の本について書いている。勿論読後感を書く気にならない本も少しはあるが、それにしても読書量もずいぶん減ったものだ。しかも印象に深く残ったと言えるものが少ないのも少し残念だが、20冊近くの本を読んだことだけでも良しとしよう。どうせ来年はもっと少なくなるに決まっているのだから。

残るところはこのブログしかない。今のところ読み返す気も起きないが、回数だけ見ると、昨日で既に292回になっている。昨年の276回を既にオーバーしている。来年も多分書き続けることになるだろうが、果たしてどんな事を書いたものやらだ。

1日は、若くてエネルギッシュに動けても年をとっても24時間。若い時でも1日に5時間は睡眠をとらねばなるまい。まして昨今は、昼間の居眠りを勘定に入れなくても1日8時間は布団の中にいないと身体が持たないと思っている。従って意識して使える時間は16時間。その中6時間ぐらいは、食事やウォーキングとブログ書きで使い方が決まっていると考えてよさそうだ。残る時間に何をするかだが、1日10時間は微妙な時間ではないか。やろうと思えば相当なことが出来そうだが、結局冒頭にに書いたように何もしていないのが現実だ。

宿題がある訳でもないし、試験や通信簿の脅迫、仕事のノルマは既に遠い世界のことだ。しかしそういった制約があったから、知恵を使ってさぼったり、時間を作って遊ぶのが楽しかった。と沁みじみ感じる今日この頃である。

明日も 漂う 波任せ 爺

2013年12月15日日曜日

高校同窓会

昨日は午後から東京長高金鵄会と称する高校の同窓会があった。銀座のホテルに10期も先輩の大長老から40期下の若者まで総勢140人近く集まって賑やかなことだった。カラオケは行かないがこの時ばかり校歌と信濃の国の斉唱に加わるのが楽しみである。きっと皆同じ思いだろう、音量が凄まじい。こちらの調子は大分外れているだろうが誰も文句を言わないので気持ちが良い。

いつものことだが、懇親会に入る前に必ず同窓生の文化講演がある。これがいつもまた大きな楽しみで、今回は娘と同じくらいの若い政治学者で慶応大学の先生でテーマは「政官関係と人材育成―近代から現代へ、長野から東京へ」明治維新以降、日本の骨格を作った人たちがどんな教育を受けたかについて、相当念入りに研究されているようだ。明日以降、彼の書いた本でも本屋に探し行こうと思っている。

もう一つあって、こちらは3期下の学者と元官僚と元福岡高裁長官といずれも税金で高禄を食んだ偉いさん達。共通のテーマが「日本の知的財産戦略を語る」。一見する限りつまらなそうだが、意外と面白い。民間だけが日本の経済を引っ張っていて、官僚は規制することで自ら甘い汁を吸っている。と考える向きが多いと思うが、今度の講演を聴くと官僚も捨てたものだはなさそうである。まだ緒に就いたばかりのようではあるが、アイディアそのものがお金を生むことについては相当後進国みたいだ。

日本人は民も官も、研究をお金にするには製品開発しかないと思ってきた節がある。ips細胞の中山教授がテレビで喋っているのを聞いたことがある。アメリカの研究機関の周辺には、生物医学に知識も博士号クラスのビジネスマネージメントの専門家がわんさと寄ってくるシステムになっているらしい。従ってips細胞を生かしたビジネスモデルが日本で開発される頃には、莫大な特許料を欧米に支払うような結果にままなるのだそうだ。

官僚だけでこれを防戦することは難しいだろうが、官が民に対してビジネスを促進できる環境を徐々に整えることは可能だろう。人からコンクリートも結構だが、ソフトパワーを本当に理解できる優秀な人が現在の政官界にどれほどいるかがこれからの問題であろう。その最先端に母校の後輩たちが頑張っているとすれば母校は捨てたものではない。しかも同期生が図らずもかどうか知らぬが、力を合わせたと言うことが珍しい。

自分もそうであるが、大体信州人には「俺が俺が」で、他人に手柄を立てさせるとか、他人と強調する精神に乏しい人間が多いとされている。猪瀬都知事なんかが典型的かもしれない。しかし根が貧乏だから、諦めのが良いことと潔さは美徳としたものだが、最近こちらは薄らいでしまったようだ。

2013年12月13日金曜日

日本が右傾化かな?

朝食を食いながら昨日清水寺で書かれた今年の漢字「輪」の話になった。「あなたの漢字は何?」と聞かれてすかさず「沈」と答えた。煙と同じで馬鹿は高いところが好きなのに「沈」とはこれ如何にだ。自己分析すれば、やはり仕事が無くなり社会参加している実感が無いことが余程精神に響いているのだろう。
兎に角誰か他人の役に立つことをしていないと気が済まないとは、我ながら実に素晴らしい人格ではないか。

他人に道を聞かれて教えてあげる、駅の階段でベビーカーを持ってあげるとか、他人が喜ぶのを見ると、その日は気分が良くなる。じゃぁボランティアをすればいいじゃないか、とよく人から言われるが、どうもその気にはなれない。社会への参加=社会貢献は基本的に対価が伴わないと嫌なのだ。生まれと育ちのせいで根が賤しいのかな。

道筋の一寸した親切とか同窓会の幹事をするのとはわけが違う。勝手な理屈であまり賛同してくれる人がいるとも思えないが、共同募金の赤い羽根なんかも好きではない。少しお臍の曲がった爺が水底に沈んで潮流の流れを感じ、上を仰いで水面に波立ち騒ぐのを想像しながら書いているブログとご承知願いたい。

それにつけても最近思うのは今年1年、日本の潮流が大きく方向変換していることである。船乗り用語で言うところの「面舵一杯」急速に右側に舵を取ることであるが、何で急にこんなことになったのか。石原前都知事のように青嵐会なんて勇ましい名前のグループを立ち上げたような人達であれば分からぬでもないが、安倍首相、石破幹事長のようにお若い方たちが何でだろう、と藪から棒の思いである。

言ってみれば軍隊なんて目の当たりにしたことも無い人たちが、何故軍隊を持ちたいなんて思うのか。まさか軍事国家を目指す訳でもなかろうが、北朝鮮の親玉が軍事法廷での裁判を経て叔父を処刑したと今朝報道された。たまたまこの報道を聞いて思ったのは、やはり自衛隊は自衛隊のママが良いということ。実質軍隊なのだからどっちでも良いじゃないか、とも思ったりした時もある。しかし、軍と名がつくと必ず自衛隊法は軍法となり、やがて軍法裁判に結びつくことになるだろう。

今朝の会話も漢字に続いたのはこれだ。「安倍さんや石破さんたちも何を考えているか分からないけど、天に唾して北朝鮮の張成沢氏のようにならなければいいね。」「自分たちが作った法律で、自ら処刑された例は我が国の歴史でも珍しくないからな。」麻原彰晃が未だに獄中に生きている日本の司法制度が良いかどうかは別として、それとは別の司法が誕生しかねない方向に潮の流れが変わりつつあることを感じてしまう。

しかし一応民主主義国家なのだから、右に偏り過ぎればどこかの時点で軌道修正されると信じたい。それにつけても、安倍首相の喋ることが理解出来ていないのに無暗に燥ぐはしゃぐ子供のような口ぶりと、正反対に石破幹事長の上目遣いで人を食ったような馬鹿丁寧な喋り方、多分大人ぶっているつもりであろうには閉口する。

2013年12月12日木曜日

南アフリカ:マンデラ元大統領の国葬

10日に行われた南アフリカ元大統領の国葬に日本から皇太子殿下と福田元総理が参列された。世界各国から100人を超える首脳クラスが参列したそうで、日本と最も関係深いアメリカからは現職のオバマ大統領夫妻の他に3人の元大統領が参列した。共和党のブッシュ氏、民主党のカーター氏ともう一人は確認できなかったが、キッシンジャー氏の姿も見たような気がする。南アフリカと日本の関係について詳しくはないが、在住経験のある複数の友人から聞いている限りでは、鉱物資源の豊かさなどからして決して無視できる国ではなさそうだ。

南アの国葬に関してはマスコミはさらっと流すだけで、総理が行かなかった理由について触れることも無く、まして非難めいた報道は一切ない。マンデラ氏について多くは知らないが、正にノーベル平和賞受賞に値する偉大な人道主義者だったと思う。日本との経済関係が有ろうと無かろうと、政治家ならば民主的国家建設を目指す同志の一人として共感を持って当り前であろう。盛大な葬儀になったのは、世界にはそのように考える政治家が非常に多いことに他ならない。

日本人にとって葬儀が最大の義理掛けであるのは誰も知っていることである。普段村八分になっている家でさえ、葬儀には村人全員が駆けつけるのである。安倍総理の考えや行動には理解できないことが多いが、この件に関しては本当に理解できない。オバマ氏やキャメロン首相に会えるだけでも喜びそうな彼が、敢えて参列を辞めて福田氏に譲ったのは如何なる理由だろうか?10日の首相動静を改めて確認しても、国会が終わってホッとする様子は確認できるが、その日に総理が国内にいなければならない特段の理由は何も無さそうである。

人種差別については関心の薄い国柄の故か、関係性が薄い国と見たか、何れにしても総理は自分で出向くほどのことはないと決めた訳だ。このことは個人的見解と判断が別れるところだから仕方ない。問いたいのは、メディアの対応である。1社や2社は小生と同じ違和感を持ってほしいのだが、こちらのセンスが余程常識離れしているのだろうか、関連する記事は何処にも見当たらない。

圧倒的多数を要する国会審議で勝ち続ける与党自民党に公明党。余裕の総理がゴルフをしようと座禅を組もうと勝手だが、マスコミまで弛んでしまったのでは庶民は救われない。平和の党、庶民の味方と称する公明党のありようはこれで善いのだろうか。マスコミの諸氏に対し、健全な批判精神を失わないようにお願いしたいものだ。

2013年12月11日水曜日

読後感「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」門田隆将著

約1年前に発売された時から、いつかは読まなければいけないと思いながら、やっと読むことが出来た。主人公の吉田昌朗氏は残念ながら今年の7月9日に亡くなられてしまった。死因は食道癌と公表されている。著者門田氏はその約1年前に闘病中の吉田氏に4時間に亘るインタビューをして、この作品を書いている。両氏とも吉田氏に死期が迫っていることは十分承知しながらのことであったに違いない。

書名からして主人公が吉田氏であると思うのは当然だが、実はそうではない。主人公はあの311東北大地震と大津波に襲われた、東京電力福島第一発電所そのものと見るのが正しいように思う。登場する人物も所長の吉田氏は勿論だが、主役は彼一人ではなく、当時現場にいた約600人の従業員、協力会社員に加え救助に駆け付けた多くの人が登場する。

それが著者の力量なのだろうが、原発サイトそのものを主役として、書き起こしは戦時中そこに置かれた陸軍航空隊の飛行場と、後にサイトに勤務することになる重要な原発運転員の少年時代をを描いている。ノンフィクションだから多分事実と思いたいが、特攻の訓練基地であったかのような書き方になっている。伏線に陸軍や特攻隊を持ってきたのは何故だろうか。

読後初めて理解が出来るようになるのだが、ここでも書名にある500日との乖離があり、実際に描かれているのは3月11日から約1週間のことである。著者が吉田氏にインタビューできたのが地震発生後500日目だったのだろう。
しかしこの1週間に起きた出来事は、本当に生死を掛けた戦争によく似たものだったようだ。これまで生の映像や関連記事、事故報告書等を読むことでイメージしていたものとは全く異なるシーンが脳裏に焼き付いた。

例えると、硫黄島での栗林中将の最後の闘いを描いた「散るぞ悲しき」を読んだ時と同じような迫力がある。硫黄島は飛んでくる砲弾であるが、原発サイトの放射能は隙間が無いだけに砲弾以上に恐ろしいものだ。勿論現場の人間はその恐ろしさについて十分承知しているが、無知とは恐ろしいもので、私自身は認識が無かったのが事実。多分マスコミ報道が自主規制していた節もありそうだが、多くの国民は今でもあまり認識はないだろう。

今度の事故と過去の戦争に共通するのは、現地の事情に対する認識のずれである。戦争で言えば大本営の参謀本部、事故の場合は東電本社や官邸であろう。そこにどんなに優秀で経験豊かな人材が居ようと、ずれを回避できない。後方から口を出せば現場は混乱するばかり。ここのところが実に生々しく書かれている。極端に言えばあれほど悪者にされている菅元総理にしても、当時の言動は総理としてとても認める訳にはいかないが、ある意味では混乱の極みにおける犠牲者の一人かも知れない。

放射能との戦いも、実に多数の不眠不休の闘いが続き、事故から1週間後くらいには、各炉に冷水が連続して注入できるようになって一応危機的状態は脱する。しかし戦いが終わるわけでもなく、幸運に恵まれたとした方が良いようである。読み終わって思うのは、当時現場で働いた人が浴びた放射線量の多さについてである。吉田所長の死因は無関係と公表された。被曝の結果がどうなるかを承知しながら、原子炉の冷却を続けなければ日本の3分の1が滅びることを知っていた人達が現場にいたこと。そんなことは知らなても、当たり前の任務と思って黙々と作業する人たちのこと。読んでいるうちに涙が出てきた。

その大部分は無名で終わる筈だが、被爆者の数は半端でない筈だ。将来不幸な結果にならぬことを祈るばかりである。

2013年12月10日火曜日

安倍内閣とマスコミのお友達関係

日曜日で臨時国会も終わり、昨日は総理の記者会見があったようだが外で忘年会をしていたので見ることは出来なかった。別に残念でもないし見たかったわけでもない。我が家の解説員も殆どスルーしてしまったようで、特筆すべき点は何も無いようだ。相変わらず聞き取り難い話し方ではあったのだろうが、日本語の用法も特に間違いはなかったようで、役人が書いた下書きを十分読みこむ予習効果があったらしいの一言だけだった。

念のため少しネットで確認すると『「この国会は、成長戦略の実行力が問われる国会である」、国会の冒頭、私はそのように申し上げました。 「成長戦略実行国会」と呼ぶに相応しい国会となったと思います。 』と仰ったらしい。勿論枕に『特定秘密保護法案がばかりが注目されましたが、』とは言っているが少し厚かましいのではないだろうか。所信表明で全く言及しなかった安全保障関連法案審議に何故か力点を置かざるを得なかった事実を思えば、内心相当忸怩たる思いではあろう。

ある意味では同情もしたくなる。フリージャーナリストの上杉隆氏のメルマガに書いてあった記事の方が興味深い。氏はやや反語的(褒め殺し?)な意味もあるのだろうが、「確かに見事な国会運営だった。衆参合わせて100時間にも満たない審議時間で成立させた特定秘密保護法、それだけではない。そのウラで一気に押し進めた「カジノ(IR)法案」の提出(継続審議)、武器輸出三原則の見直し(自公合意)など、これまで、いかなる政権でも成し得なかった政治課題を次々と進ませたのだ。」と書いている。

氏が言わんとしていることは、「 政治ジャーナリズムの敗北」とタイトルを振っているのだが、官邸が恰も赤子の手をひねるようにマスコミを操縦したことを非難しているのである。これには全く同感である。一応、言論の自由を守れとかなんとか恰好だけはつけているが、新聞社上層部が消費税課税を免除してほしいからかどうか知らぬが、政府に阿っているのは見え見えである。小泉発言なんかも似ているところがあって、言うだけなら誰でも言える。

メディアが本気で廃案に追い込む気があるなら、もっと別の道がありそうだ。テレビなんかで顔の売れた古手の記者や解説員に会見なんかさせたりしても、所詮アリバイ造りにしか見えない。民主党政権時代に、総理や幹事長を辞職に追い込んだ時の勢いが全く感じられないではないか。その意味において安倍総理は本当に強かになった。これだけ民意を無視しながら、世論調査の総理支持率はそんなに下がらない。

これもひとえにマスコミ報道が総理の意に反していない証拠ではないか。我が後輩の都知事の政治生命も風前の灯だが、これも安倍総理の深慮遠謀との噂が高い。

2013年12月9日月曜日

大人の玩具

小生にとっての一番の玩具はパソコンに他ならない。終日パソコンを弄って遊んでいる日が多い。最も時間が掛かるのが何と言ってもネット囲碁、多い時は1日に5局以上(多分4時間以上になる筈)に及ぶことさえある。目には悪いだろうし、マウスを掴みぱなしなので右手や右肩の感覚がおかしくなる時さえある。変に脳みそも使うので、頭に血が上って脳梗塞でも起こさなければいいがとも思うのだが、どうも素直にやめられない。

連れ合いの婆さんにとって最大の玩具は電話ではなかろうか。小生自身も携帯電話を持つようになって既に10数年は経つが、そんなに使用頻度は高くないし、電話の用事は1、2分で大体終わる。引き換えに、婆さんの電話ときたら1時間以上になることが屡らしい。最近は歳暮のやり取りのシーズンなので、やたらと電話の用事が多いらしい。電話は居間にしかないので、昨夜も「食事が終わったら早いとこ自分の部屋に引っ込んでくれ。」と催促されてしまった。

長電話を楽しむのだそうだ。自分で言っているのだから世話はない。先日の同窓会の折も友人が同じようなことを言っていた。男の電話は大概「これこれの件で、これこれだから宜しく頼む。」「よし、分かった。」で済むケースが多い。しかし女房の電話と来た日には「もしもし、今何している?」から始まり何を話しているのかさっぱり分からない。挙句の果てに「じゃあ、またね。」と電話を切った後になって肝心の要件を伝えていなかったことに気が付くことまであるそうだ。

小生のネット囲碁と同じで、電話での会話そのものが大いなるレジャーなんであろう。同席していた同級生、昔可愛かったお嬢さんが解説してくれた。何処も同じで、殆どの女性には会話を交わすこと自体が楽しみなんだから内容は全く問わないの。内容に余り意味が無い点ではこちらの囲碁とよく似ている。亭主の悪口と昨日の食事やおかずの話、共通の知人の悪口が定番らしいが、どれもさしたる意味は持たないようだ。

それでも延々と途切れることなく会話は続くものらしい。習慣化しているこのブログも下らないと言えばそれまでだが、これから出かけなくてはならないので、知りつつ下らぬ文章を書いた。

2013年12月8日日曜日

昼飯屋の親爺の話

今日の昼飯は事務所の隣にある洋食屋でハンバーグランチ。親爺が一人で切り盛りしている店だが、昔池袋西口にあった大きな洋食店に長年勤めていただけに、結構美味いものを安く出してくれる。年齢は聞いたことが無いが多分同年輩だろう。土日も休まず店を開けるが、何故か開店が大体12時半頃なので、平日はめったに行かない。今日もプールから帰ってくると未だ開店の準備中、「おはよう」と挨拶だけして「後で来るからいつものハンバーグランチね。」と注文を先にして、一旦事務所に上がって、こちらも事務所を立ち上げて12時半過ぎに顔を出すと、丁度いい塩梅に昼飯が用意されていた。

650円のランチだが、ハンバーグは既製品とは違い、親爺が合いびきの肉を手で捏ねて造る。繋ぎの食パンの量が微妙で、これが一つの自慢らしい。焼き立てに特製のデミグラソースが掛かり、付け合せのサラダにはいつも薄く刻んだリンゴが入っている。他にわかめと豆腐の味噌汁、だしに浸した冷奴には白魚をまぶしているし、デザートはコーヒーゼリーと苺が一粒。結構いけている。食事している最中客が入ってこなかったので、親父とずっと話をしていた。勿論二人とも真珠湾攻撃大成功の高揚感は知る由もない。

しかし、戦後の苦労は共通している。話は先ず親爺の「4月から消費税が上がるので小さい飯屋は相当困るだろう。」から始まった。今でも野菜や小麦粉など食材の値上がりは相当きついらしい。ものによっては1年前に比べると倍になっている物さえあるようだ。マスコミが景気が良くなっていると言っているが、家庭の主婦の財布の紐は締まる一方なので小さな食堂が値上げが出来ない。仕入れが上がって値上げが出来ないと利益は」益々薄くなる。

「値上げをすれば」と言ったらそこがなかなか難しいのだそうだ。売れ行きが落ちて食材に残りが出ると、結局それが無駄になる。ならば安くても売ってしまえとの図式になるらしい。それで終戦直後の話になった訳。昔は八百屋にしても肉屋にしても魚屋にしても小さな店だった。ネギ一本、ひき肉50匁、醤油4合なんて買い方が可能だったが、今は大店舗に集約されているので仕入れ方も違ってくるのだそうだ。

段々話が進んで親爺が言った一言「今から見れば凄くけち臭い買い物のしかただったが、当時は誰も自分だけが貧乏だなんて思っていなかった。カレーライスに豚のこま切れが一切れ浮かんでいるだけで、今日はご馳走だと思った時期もあったよね。」これは全く同感で、流通上であれ家庭であれ、食材の無駄は罰が当たりそうな日本の現状だ。丁度二人目の客が来る直前の一言がこれだった「今の子供たちに<ご馳走感>があるのだろうか、多分無いのじゃないかな。」

贅沢は知っていても、本当の<ご馳走感>が無いとすれば今の子供は可哀そうかもしれない。

2013年12月7日土曜日

無駄な努力でなければいいが

大東亜戦争開戦記念日を直前にして気分が高揚したのかどうか知らないが、随分と戦争を意識している法案が成立したようだ。実質今国会は昨日で閉幕して、期末手当の代わりに会期を2日延長したとは、随分セコイ話ではないか。朝食時に我が家の解説員の解説を聞くと、今国会冒頭の総理所信表明でこの法案のことは一言も入っていなかった。それを急に持ち出しこんな強引に成立させるとは余程裏があるに違いない。

宗主国からきついお達しが無ければこんな無様は演じないだろう。何でも自民党内手続きも随分簡素化されたものだったとのこと。一昔前であれば総務会での後藤田さんのような長老の一言で、法案提出も無理だったに違いない。自民党もすっかり変わり果てたと言うことでしょう。この無法が世論にどんな影響を与えるか分からないけど、次の選挙までしっかり記憶に刻みつけてほしいものよ。でもね、皆忘れっぽいからだめかしら?てなことだった。

そうかそうかと頷きながら聞いていたが、アメリカからのプレッシャーてなんだろう?ひょっとすると、安倍さんが勇ましいのは踊らされているだけで、日本の自衛隊をアメリカ軍の傭兵として使いたがっているのはやはりアメリカと言うことか。言われてみればアメリカは農業と戦争を国家の二大産業としている節もある。人口がまだ増えているとは言っても自国の若者だけを消耗するのはそろそろ限界にきているのだろう。

日本人の大部分が日米同盟が対等の盟友関係と思っているが、アメリカ人が同じように思っているかどうかは相当怪しい。先の大戦時の構図を思えば米英中が連合軍で日独が敵国だったし、米中は共に強かだからテーブルの下でしっかり握り合っていても不思議ではない。勝手に想像すれば、シリアへの空爆に関してオバマ大統領の態度とインドネシアに外遊中だった安倍総理の発言がまるで噛み合わなかったことに安倍さんは相当ショックを受けたのではないだろうか?

まさか幾らアメリカでも、こんな法整備が無い国に情報はやれないとか、あれば上げるみたいな露骨なプレッシャーは掛けないだろう。それこそ特別機密だろうから、何が原因でこの法案にしゃかりきになったかは永遠に謎だろう。トラウマみたいものだろうが、法案成立で払拭されれば結構な話だ。しかしアメリカ辺りにすれば、法案があろうとなかろうと本当の機密情報なんぞそう易々日本に渡す筈は無いそうだ。

外務省や防衛省に正規ルートで入る情報の殆どは、漏れることが前提になっていると言う人が多い。本当の秘密情報は個人宛てに渡されるものらしいが、安倍総理にはそのルートが無いのでイラついたと見るのが妥当のようだ。今度の中国防衛識別圏騒動でのバイデン副大統領との話もまるで噛み合わないし、見ていて少し同情心が湧いた。無理な外交は止めて経済に専念しては如何かな。

2013年12月6日金曜日

世界文化遺産「和食」

個人的には全く同意しないが、日本人は外国からの評価とか受賞を過大に喜びすぎるのではないか。ノーベル賞受賞科学者を大いに持て囃すくらいのことにケチをつけるつもりもないが、やれ平和賞だことの文学賞で大騒ぎする神経が分からない。先日も文学のことで少し書いたが、ノーベル賞作家の小説が面白いとは限らないだろうし、受賞して有りがたいのは著者に思わぬ大金が転げ込むぐらいで、傍の人間が大喜びするほどのことでもあるまい。

こと平和賞に至っては、佐藤栄作元総理やバラク・オバマアメリカ大統領の受賞なんてどんな意味があってのことかさっぱり分からない。似たような思いを持つのはユネスコ世界遺産指定についてである。誰が手を挙げ、指定されたらどんな意味があるのかよく知らないが、指定されたら誰かがその自然なり文化を末永く守る必要があるに違いない。今年指定を受けて山開き前から大いに賑わったとされる富士山なんかについても、果たして喜んでいいのかどうか。

マスコミは直ぐ燥ぎたがるが、立場によって人々にも様々思いがあるようだ。小生は世界遺産指定には何ら思いもないが、一山好きとして言えば、毎年のように死者を出す事の防止策を地元では真剣に考えるべきだと思う。入山料を徴取するのも結構だろうが、シーズンオフの入山禁止を徹底することが一つの方法だろうと思う。勿論それでも入山する人間はいるだろうが、飽く迄自己責任で行ってもらって、公的機関の捜索はしないことにしてはどうだろうか。

無償で危険を冒して捜索に出かけ、怪我人を釣り上げそこなって殺人者扱いをされたのではたまったものではなかろう。最近は山岳保険も完備しているのだから、オフシーズンに入山するほどのベテランであればそれなりの覚悟はあるだろう。仲間や家族が連絡し合って民間救助隊だけですべきことだ。話が飛躍したが、同様のことはやはり先月発生した立山でのスキーヤーの雪崩遭難についても言える。こういった事を外国人がどう見ているか分からないが、欧米の人間は我儘に見えるが、自己責任についての自覚はかなり高くて、傍の評価は余り気にしていないように見えるのは僻目かな?

富士山が文化遺産も解し兼ねるが、和食に至っては尚更である。外国には既に指定を受けている食事があるのも知っているが、「和食」とは何ぞやだ。単に正月の雑煮とか餅とか沢庵漬くらいならまだしもだ。1か月前に製造されて保冷庫に入れられ、スーパーで買ってくる「おせち」が和食であるなら蝶やトンボも鳥のうちだろう。誰が申請しているか知らぬが是非ご意見をお聞きしたい。テレビ毎日のように和食々々と騒ぐが、カレーライスもラーメンも立派な和食の筈だ。

訳のわからぬことを有難がるより、もっと伝承を大事にすることが他にあるだろうと思うこの頃である。

2013年12月5日木曜日

読後感「人情裏長屋」山本周五郎著

11の短編小説からなる小冊子で、執筆の年代も戦前の昭和8年から戦後昭和25年にまたがっている。9編は時代小説で2編が現代小説である。著者は明治36年の生まれなので我が父と同世代の人である。多くの著作があるが、その全て少なくとも私が読んだ限りは、日本人固有かどうか分からないが、多くの人が心の内に秘めている人間性、優しさとか正義感、責任感を描かせると天下一品である。時に歴史に名が残っている有名人であろうと、名もない庶民であろうと、読み進むにつれ心打つ思いに不覚にも涙が滲むことが多い。

勿論時代に左右されることも無い。ここに採録されている短編も17年の長きにわたっているし、中に世界大戦をはさんでいるので世の中は激変しているにも拘らず、著者が訴えかけてくることには何の変化もない。日本の社会をより住みやすくしている、或いは家族を含め居心地良く整えているのは「人情」に尽きるとの信念が見事に伝わってくる。著者は若い頃貧乏暮らしで苦労した時代があるとのこと。そのせいでもあるのか庶民を描くと特にその筆致が冴えるようだ。

ここで描かれている主人公達は、長屋に住んでいるような少し落ち目でうらぶれた感じを漂わせている。中には嘗てはかなりの食禄を食んだ高級武士もいるのだが。現代で言えば勤務していた大企業が倒産して落ちぶれたサラリーマン見たい人だろう。或いは駕籠かきとか、いろいろである。兎に角人生には誰しも落ち目になる時もあり、生活環境が変化するのは已むを得ないだろう。しかし幼少時から身に着いた本質は変わらない。

例えば、教養とか武芸なんかもそうであろう。持てる才能をまともに生かしようがない不遇にある侍が、ある時捨て子を拾わざるを得ない局面に遭遇してしてしまった顛末を描いているのが書名になっている「人情裏長屋」である。長屋話だから、脇役にもいろいろ賑やかな登場人物が出てくるし、挿入される逸話も実に面白く構成されている。準主役で登場するお侍も似たような境遇で、再就職を求める姿は現代にも通じるものがある。

人情の核心は話の落ちに繋がるが、親子の情愛を語っている。最近カンヌ映画祭で高い評価を得た「そして父になる」と言う映画がある。観てはいないが、生みの親と育ての親について心理の機微を描いたものと聞く。作者は誰か知らないが、ひょっとするとこの小説にヒントを得たものではないかなと思ったりした。


2013年12月4日水曜日

精神の安定が難しい

暇に任せてネット碁で遊んでいると、如何に自分がおっちょこちょいかがよく分かる。同時に思うことに精神状態のコンディションで、思考回路と言うか、判断力と言うべきものか分からないが、物凄く違ってくることに最近気が付き始めた。スポーツの選手がよく使う言葉に「集中して」とか「気持ちを強く持って」があるが、確かに身体が疲れていると精神がだれてくるのだろう。勝率が悪い気がする。

身体の調子がいい時は神経をあまり使わなくても、碁にリズムが出てくる気がする。特に気持ちを強く持つわけはないが、ゲームに集中できているのではないだろうか。本当に面白いものだ、目の前に展開されている模様のある1点に石を置くだけのゲームである。ゲームが山場に差し掛かる頃には、その1点もそんなに多くの選択肢がある訳ではないが、好点は1か所か精々2か所程度のことである。ところが石をおける点は数十か所見えている。

悲しいことに下手の横好きは、その好点が見つけられない。相手の立場で考えよもよく言われるのだが、相手の立場を己に都合良く考えてしまうのだ。所謂「勝手読み」と言う奴で、身体の調子がおかしい時は特に多くなって酷い手が出てしまう。身体の状態が良くて、何となく自分のペースだと思うゲームにも落とし穴は存在する。囲碁用語で「打ち過ぎ」である。プロ同士なら常に厳しいせめぎ合いをしているので、「打ち過ぎ」は仕方ない。

分かって打っているのだから、相手の応手次第で引き揚げどころも心得ている。
ところがこちらのような笊碁クラスになると、数手進行して気がついても遅い。
アッと叫んだ時は形勢が一気に逆転されている。気持ちが散漫で集中していない時と、調子が良すぎてイケイケどんどんになる時は同じくらい精神状態がおかしいのだと思う。常に冷静でいることは言うは易いが実に難しいとしみじみ思う。

相撲や野球に限らずスポーツ選手は、オフの時も含めどのくらいトレーニングを積んだかが本番に必ず現れるようだ。本番では神経を張りつめて集中するようではいけないのだろう。むしろ本番では精神を自然体に保つことが必要で、慢心して試合に臨むプロはいないだろうが、一流選手は少しのミスには動揺しないようだ。中国に行くと囲碁のプロ棋士は国の体育部に所属することになっているが、精神状態を考えれば全くスポーツだと思う。

話が飛躍するが、外交なんて政治課題も相手が居る話なので似ていると思う。諸般の情勢を冷静に眺め、相手の気持ちも忖度しなければまともな交渉は出来ないのだろう。我が国の外交を見る限り「勝手読み」に過ぎているように見えて仕方ない。内政に於いては自民党幹事長のテロ発言なんぞ、正に勝ち過ぎから打ち過ぎの1手を打ってしまった感がある。

2013年12月3日火曜日

大学同窓会

このところ東京は冬晴れで、しかも暖かな穏やかな日が続いている。気候は誠に結構な上、プライベートでは一昨日の昼、昨夜、そしてまた本日昼と3日連荘で飲み会が続いてしまった。今日は大学の同窓会で、午前11:30霞が関の会員制クラブに集合して2時間半、一昨日同様の赤ワインで、同じように強か飲んでしまった。「もう結構です。」とか何とか言いながら、グラスにワインがあるとどうしても手が出てしまう。所詮賤しい根性だ。

会場の前が日比谷公園だったが、何やら大勢人が集まりそうな気配でお巡りさんが沢山出ていた。きっと我々が呑気に昼酒を食らっている間に特定秘密関連法案反対かなにか、大きなデモがあったに違いない。同窓生は似たような年齢だから当然だが、元気そうに見えても話を聞くと、皆それなりに人生の苦しみを背負っていることが分かる。僅か10数人の集まりだったが、高齢化日本の縮図を見る思いだ。50年前には野球部で活躍していたのに、その面影が全く感じられない友人は、今月前立腺癌で入院を余儀なくされるとのこと。

同病の誼で聞くと、彼のPSAマーカーは小生の数値より遥かに低い。思わず背筋が寒くなる。配偶者の介護をしている者もいるし、介護をしてきたが、やっと入院できたので今日久し振りに出席したなんて者もいた。配偶者を既に失っている者は一人住まいの不安を訴えていた。中には親兄弟の介護や、一人住まいの親が入院してしまった後の家屋のメンテナンスや税金の心配。70歳も半ばとなると実に様々な問題が生ずるものだ。

働き盛りを順調に過ごし、功成り名を遂げても連れ合いに先立たれたのでは少し可哀そうだ。地方の名家から嫁を貰ったは良いが、実家が立派過ぎて一人住まいの義母が入院してしまうと誰も住み手が居ない。お医者はもう家には帰れないでしょうと言っている。その上固定資産税と植木の手入れだけで年間600万円以上の費用が負担なので慌てて家を売りに出したなんて者もいた。似たような話では、東京郊外にこれまで暮らしていたが、千葉の実家で母が入院してしまった。

出戻った娘と孫が居るので、手狭になった東京の家を売り払い、来年早々には千葉に引っ込む予定なんて者もいる。脇から口を出して、財産は出来るだけ不動産にしておいた方が相続が楽だとか、いろんなことを言うのを聞いていると、恵まれすぎているように見える人にも苦労が偲ばれて面白い。他人の話を面白がっていても、いつ何時災難がこちらに降りかかるか分からない。何となく思うのは、学力優秀な子どもに恵まれたり経済的に持てる身分となる人にはそれなりに苦労があること。逆にそうでもない自分は余計な苦労をしなくて済むことを有りがたいとすべきことだろう。

人生と言うべきか、人間の幸不幸は本当にバランスが取れている。ここまで来ればじたばたの仕様もないが、結局最後に問題になるのは身体の健康なんだろう。

2013年12月2日月曜日

結局何も残らない

昨日は昼から高校同期有志の飲み会で、ワインを飲みすぎ日記はサボってしまった。参加者7人は年相応の持病などは抱えつつも、意気だけは高校生時代と変わらない。しかし2時間半飲み続けていたのは3人だけで、残り4人は前から飲まない一人を含め大分酒量が落ちていることを認めざるを得ない。酒を飲めることくらいしか自慢出来る事が無いので、つまらぬ事を書いた。

勿論談論風発話題は多岐に及んだが、中にお医者さんが一人いたので、老人会のパターン通り健康に関する話題が多かったような気がする。そんな中やっぱりと思ったことがある。7人の中で3人が歓談中に懐中からスマホを取り出した。一人は来年の予定を確認するため、もう一人は写真を披露するため、3人目は着信したメールを確認のためである。小生が持っていないのは確かだが、残り3人もスマホを持っていたかもしれない。

スマホなる機械(ディバイスと称するようだ)が我々世代にも順調に浸透しつつある証拠だろう。小生も今年4月だったかiPadminiとセットで購入したが、結局使いこなすことが出来なかった。1年半くらいローンが残っているのだが、持っていても仕方がないので、結局若い友人に提供してしまった。彼はITに詳しい人間なので、喜んで活用しているとのこと。何もしないで戸棚の上に置きぱなしよりは少しましだろう思うことにしている。

年寄りはどうでも良いが、先週テレビで幼児にスマホやタブレット端末を玩具代わりに与えて子育てをさぼる主婦のことをやっていた。電車の中では小学生と思しき子供がこういった機器に見入る光景は珍しくとも何ともない。こういった機器の発達は留まることなく進歩発展し、小学校でも紙の教材が不要になる時代も遠くないだろう。従って今更児童にIC端末をを持たせるなと言っても始まるまい。しかし赤ちゃんの玩具代わりの使用については、只でさえ希薄になりつつある母子関係を思うと、どんな影響が出るか少し心配でもある。

親子関係なんかについても、こう言うものかとイメージしていても時が経つと少しずつ変化するかもしれないので、年寄りの要らぬお世話かもしれぬ。たった7人の集まりでも時代の変化、流れに遅れずついて行ける人間とそうでない人間の違いを垣間見た気がしないでもない。昨夜は帰宅してから婿さんに頼まれて録画したBS番組をダビングした。我が家のDVDデッキはブルーレイ、娘のところはブルーレイ以前のタイプ。

以前婿さんが、私がダビングしたDVDをデッキに入れたら見ることが出なかったことがあり、ダビング後にファイナライズなる操作を加えるよう教えられていた。昨晩もその教え通りファイナライズの手順まで進めたが、この操作をするボタンが出てこない。操作の必要が無くなったのかと思い、試みに古いデッキに突っ込むと、やっぱり再生できない。DVDディスクが新品であることが以前との違いなので、朝からメーカーのサポートに何度か電話をしているが繋がらない。

小生もかなり頑張ってITの進歩について行く努力をしたつもりだが、ついに諦めの境地に近い。今スマホ弄っている若い人も、これから先それなりに大変だろうと思う。ずっと大事にしてきたつもりの写真フィルムネガも、8ミリフィルムも、ビデオテープも今はどこでどうしているのだろう?手元に再現する術は何もない。

2013年11月30日土曜日

お金で解決できること、出来ぬこと

今年も余すところ1か月となってしまった。昨年くらいまでは、今年やり残しそうなこと、来年に向けて準備すべきことなど少しは考えたろうが、そう言った感慨が湧かないのは困ったものだ。今週の月曜日(25日)に歯医者に行って定期検診をしてもらった。その時次回の予定をどうするか聞かれ、半年後の5月26日に予約を入れた。強いて言うならば来年唯一の予定だ。お土産に歯ブラシ1本に歯間ブラシ2本と卓上カレンダーを貰った。

〆て980円也、余りの高額にびっくりして、保険外診療かと尋ねると、そうではありません1割負担での金額ですとのこと。この歯医者さんはそもそもインターネットで見つけて飛び込んだのだが、池袋東口西武百貨店並びのビルで近くて便利。その上平日は朝10時から夜10時まで、土日でも夕方5時まで開業しているのでいつ行っても繁盛している。スタッフも大勢いて、皆親切で愛想が良い。保険からの支払い分を入れると1万円近いことになるが、45分ほどかけて全部の歯を磨いてもらった。

参考:http://www.4618.ne.jp/

床屋がほぼ同じ時間で3,400円だから高いか安いか評価は分かれるだろうが、実質的な出費は980円だから腹は立たない。ま、加齢とともに歯が弱くなると食べるものに偏りが出来て健康に悪いそうだ。入れ歯を使っていた時と比較すると、確かに最近食事が進むような気がする。インプラントに大枚100万円をを投じた甲斐があった。お金で健康が買えるなら10億円出しても若さを取り戻したいと言う友人が居るが、金で買える健康は精々ここまでだろう。

昨日は泌尿器科に行って前立腺肥大の検査結果を聞いた。相変わらずPSAマーカーが上昇の一途を辿っており、ついに17.2(正常値は4まで)になってしまった。医者は生体検査で癌が発見できないのだから仕方ありませんね。精々腰回りを冷やさないようにしてください。いつもの科白を繰り返すだけである。原因が特定できないのに薬だけ服用しているのも苛立たしいものだ。来年は本気でセカンドオピニオンを求めようかと思いついた。

2013年11月29日金曜日

殺しのライセンスと当局の関係

今週は日本版NSC法(国家安全保障会議設置法)なる法律が成立し、来月早々には特定秘密保護法案が成立するので政権幹部は喜び、野党や在野識者の多くが非難の声を上げている。正直なところ一庶民としては縁遠い感じで、中身を吟味する気にもならない。ぼんやり知る限りでは、この2法案成立で官邸機能を強化して、アメリカとの関係をより高みに引き上げること目論んでいるようだが、果たして思い通りにいくかどうかだ。

むしろ本当に喜んでいるのは霞が関の高級官僚らしい。高い支持率を維持している安倍政権といえどもいつまで続くか分かりはしないが、既存官僚システムがそう簡単に崩れないことは明らかなこと。その官僚に情報の操作を恣意的に行えるお墨付きを与えるとは、政治家として何を考えているのか益々分からない。官邸側は、これで霞が関官僚を上手くコントロールするつもりだろう。しかし縦割り行政の壁に阻まれる官邸に、機能集約がそんなに簡単にいくとは思えない

聞けば来週開かれる第1回安全保障会議は総理、官房長官、外務、防衛の4大臣だけで、事務局の設定は1か月以上先とも言われている。事務局長に内定している谷内元外務次官に対してさえ、まだ正式に辞令すら公布できないでいるようだ。何れ創設される事務局は例によって関係各省からの出向で構成されるのだから、母体官庁の官僚の思うように官邸が操作されることになるだろう。

昨日辺りから新聞が報道し始めた防衛省の現代版「特務機関」、即ち陸上自衛隊の秘密情報部隊「陸上幕僚監部運用支援・情報部別班」(俗称:別班)についてOBが長年に亘る存在を明らかにしている。自衛隊は紛れもなく軍隊だから、こんな機能組織が古くからあるのは当然で、無い方が不思議だろう。しかしOB氏が語るには、この組織と活動については総理はおろか担当大臣にも秘密にしていたとのこと。

しかも創設を促したアメリカ参謀本部では重宝していた時期もあるらしい。もし優秀であれば現在でもアメリカとは密接に繋がっているのだろう。このリークが官邸身体とすれば見上げたものだ。しかし「別班」について、官房長官も防衛相も存在を否定している。映画「007」シリーズや「ミッション・インポシブル」の主人公たちは殺しのお墨付きまで貰いながら、当局は一切関知しないことになっている。考えてみれば、政府高官が存在を認めたのでは洒落にならないので、とぼけたか?

或いはOB氏の言う通り、総理はおろか官房長官や防衛相にも上がらない情報があるのを知って、これじゃいけないと考えた上での立法だったのかもしれぬ。安倍さんにも映画「007」に出てくる英国の首相みたいになりたい気持ちがったのかもしれぬ。確かに外国の諜報機関が、閣僚クラスに直接連絡してくることなど金輪際あり得ない。体裁だけの会議を作っても、事務局もまともに構成できぬようでは先が思いやられる。安全保障となると、オリンピック招致委員会のように恰好よく振舞うのも難しそうだ。漫画チックにならぬよう頑張ってもらいたい。

2013年11月28日木曜日

浅草のお酉さま

昨日の夕方、下町に住む友人に浅草酉の市を案内してもらった。初冬風物詩の酉の市については知識としてある程度(長野市のえびす講と似たようなものだろうと)理解していたが、実際に見たのは初めて、やはりスケールが大分違う。江戸で最も有名な酉の市だけに出展の露天商の多さが半端でない。人出も勿論すごいが肝心のお宮は思いのほか小さい。短い参道をぎゅうぎゅう詰で歩いた揚句、10数人横並びでやっと神前に押し出されて2、3秒手を合わせただけで参拝は終わってしまった。ご利益の程は余り期待できそうにないかも。笑

今朝改めて確認すると、神社の横にあった長国寺もこの日をお酉様のお祭りと定めているようだ。神社にお参りの後すぐこの寺の前を通過したが、誰も参拝している様子はなかったので素通りしてしまった。寺と神社の関係、坊主と神主の違い、ある時は一体となり、またある時に分離して一方を排撃する。日本人の宗教心のいい加減さは理解不能のところがある。他人事のように書いている本人も、苦しい時の神頼み、仏様頼みの身勝手さは典型的日本人である。

参道に出ている縁起物(熊手)の露店を見ていると面白い。松本幸四郎様や北島三郎様や高倉健様と短冊がぶら下がっているのは、きっとお買い上げの予約が入っているのだろう。ン十万円ものだろうが、縁起物だから注文が本人か後援の旦那衆かは別としても見て楽しく微笑ましい。相応しく感じないのが石原慎太郎先生とか石原伸晃先生、違う店にあった片山さつき先生と書かれた短冊で、こんな場所に何が先生だ、馬鹿じゃないかと思ってしまう。そんなに広くないエリアに路地が幾つもあり、出ている露店は何も縁起物だけではない。

食いものの種類の多さもさることながら、トルコ系の外国人屋台が多いことは少し驚いた。屋台の脇で一杯引っ掛けるのが定石かも知らぬが、少し寒そうだし、使っている燃料が爆発でもした日には面倒と、千歩近く散策の後で、友人宅近くの御徒町の料理屋さんに案内されて温かいお酒をご馳走になった。話題は様々だが、友人は作詞家でもあり、同行のパートナーさんは俳句をひねるそうだ。

飲むほどに最近読んだ面白い小説や文学論にまで話が及び、興味深い話が聴けた。曰く、やはり最近は文学とされるものが面白くない。何でも小難しく書いたものを有難がる風潮で、これにはついて行けない。こちらは著名な近代文学にはあまり接しないが、これは全く同感だ。小難しいことをウダウダ書くより古来からの形式美、俳句や短歌の簡潔さを勉強する方が余程大事だろうとの話。友人は作詞の傍ら俳句もトライしているようだが、こちらはこうして駄文を綴るだけで精一杯である。

2013年11月27日水曜日

これで本当に善いのか

今日は酉の日しかも珍しい三の酉だそうだ。下町住まいの友人が浅草酉の市に誘ってくれたので、福巡りでもして浅草あたりで一献傾けることになった。相当な賑わいとは聞いているが、実際に出かけて見るのは初めてなので楽しみだ。早めにブログを上げてしまう。

呑気な爺のことはさて置き、我が国を取り巻く諸般の情勢は余り呑気な雰囲気ではない。政府は口を開けば「安全保障上の危機が迫っている」と口にするが、具体的な説明を加えることは出来ないようだ。誰しもが尖閣諸島周辺海域のきな臭さは感じているだろうが、個人的に実感をもって受け止めている人間はどのくらい居るのだろうか?中国共産党解放軍が海軍力増強に力を入れ、海洋進出を果たしたいこと、アメリカが何とかこれを阻止したい意図を持つのもそれぞれ理解できる。

たまたまそのせめぎ合いの接点に尖閣がなってしまったのは我が国の不幸で、今更その責任を前政権に求めても始まらない。如何にこの不幸を乗り越える策を見出すかが、現政権に与えられた大きなテーマだろう。水面下の動きを知る由もないが報道を見ている限りでは、我が国は只管中国の路線を非難しているようにしか見えない。政府としてはどんなメッセージを発信するにせよ宗主国アメリカにお伺いを立てているのだろうが、果たしてそれで善いのだろうか?

敢えてアメリカに楯突けとは言わないが、もう少し日本の国益とは何か真剣に考えてもらいたい。アメリカの言い分だけ100%受け止めていたのでは、重宝に使われた挙句どこかの時点でアメリカにも見捨てられてしまう可能性を考えることも必要ではないか。勿論自衛隊がアメリカ国防司令部の1セクション化している事実も無視できないだろう。アメリカの良いところはどんな組織に於いても上意下達が絶対ではなく、部下の意見も取り入れると聞いたことがある。

あわや空爆と言うところまで行ったイランを巡る問題が、米欧露に中国まで加わったジュネーブでの外相会議が夜を徹して行われ、取り敢えずにせよ危機回避に向かいつつある。この報道と比較して尖閣を巡る日米会談のお手軽さ、電話一本で、対中政策は毅然たる態度で臨むとすぐに意見が一致している。余りの違いに暗澹たる思いだ。結果的に中国に対しては文句をつけるだけで、中国からは相手にもされていない。

日米間に齟齬がないことをもってのみ善しとするのか。何故まともな話し合いが出来ないのか。外交について専門知識がある訳でもないので、あれこれ言えるものではないが、素朴な疑問がある。今回中国が設定した防空識別圏なるものについての善悪の評価は別として、日本の民間航空会社は中国に対し該当路線のフライトプランを提出していた。勿論面白くはなかっただろう、しかし不測の事態を避けるための予防措置としては止むを得なかったに違いない。

しかし昨日日本政府はこれを提出しないよう指示したらしい。中国も余り馬鹿な真似をしないだろうが、万々が一不測の事態が発生して犠牲者が出たらだれがどんな責任を取るのだろう。取り敢えず台湾に行く用事はないので、個人的には関係ないのだが。

2013年11月26日火曜日

読書習慣

読書週間はとっくに過ぎたが、今年は暇が沢山出来たのに本を読む機会が少なすぎる。図書館にも暫く行っていないし、本屋を覗いても読みたくなるような本が見つからない。本を読んだからどうだと言っても暇つぶしになるだけで、読後感だけは一所懸命書いて、直ぐ内容も忘れてしまうなら読書はしてもしなくても同じことかも。なんて思うが、活字を通してイメージを構築する能力が劣化し、読書に疲れるようになってきている。言わば老化現象の一つだろう。

当然ながら、逆に自分の考えを整理して言葉に出す能力も劣化しているに違いないのでブログの読者にも申し訳ない。今更遅いかもしれぬが、出来るだけ本を読んで、少しでも多くの語彙を自分のものとしたいものだ。こちらはブログを書く目的があるのでそんなことをつい考えたのだが、言葉を発することを本業とする政治家や放送関係者の発言を聞いていると、その必要性を痛感する。

政治家の発言は読書の裏付けだけでは駄目で、相当な見聞が積み重ならないといけないとは思うが、やはり基礎的な体力として一定の読書量経験が積まれていないといけないように思う。アナウサーの場合はそう言った知的トレーニングがさほど必要ではないかもしれぬが、それでも公共の放送に携わるからには
余り非常識な言葉遣いは困る。

昔から笑い話にあるのは「旧中山道」を「いちにちじゅう やまみち」と読んでしまったアナウサーのことだが、昨日もまた婆さんが面白い話を聞かせてくれた。「へびゆき」て知っていますかと聞かれたが、勿論見たことも聞いたことも無い。「それで当然。」何となればつい先日民放の若い女子アナが喋ったのを聞いてしまったとのこと。車のことか道路の話で「蛇行している」を「みちいきしている」とやったらしい。

女子アナの失敗は笑い話のネタになるが、政治家のそれはもう少し深刻である。麻生氏が総理の時代「踏襲-ふしゅう」「怪我-かいが」「頻繁-はんざつ」等の読み間違いは有名だが、以来官僚が制作する想定問答にはルビが振られているらしい。従って読み間違いこそあまり発生しないようだが、安倍総理の答弁は聞きずらいこと夥しい。役人が書いたものぐらいもう少し歯切れよく喋れないものか。滑舌が良いの悪いの以前の問題である。

今回総理に就任してからは何かを自覚しているのか、総理のぶら下がり会見は廃止してしまった。それでも記者会見は時々開く必要に迫られる。婆さんはいつも聞く気がしないと言って見ないので、一人で見ていて婆さんの気持ちがわかる気がする時がある。多分コミュニケーション能力とでも言うのだろう、他人の質問を理解する能力と自分の考えを纏めて言語化する能力に全く欠けている気がする。勿論語彙も非常に乏しい。

自分のことでは今更遅いと自覚しているが、総理ともなると遅いでは済まぬ筈。
ゴルフをする時間が相当あると見受けるが、代わりにもっと本を読むことをお薦めしたい。

2013年11月25日月曜日

人間関係の難しさ

自分が他人からどのように見られているかを知る事は結構難しいことだ。実際はどうか分からないが、付き合っている人からはなるべく善く見られたいと願うのが普通の考え方だろう。子供の頃は友人知人以外からはどう思われようと、友人知人に認められさえすれば気分が良かった。だから他校の生徒と喧嘩沙汰に及ぶような馬鹿なことをしたことさえある。社会に出てから、人間は何処で誰に見られているから分からないことにやっと気がついて、遅まきながら少し身を慎むようになったつもりではある。

自分のことは取り敢えず置いて、AさんがBさんをどう見ているかはAさんとの会話を通して知る事は可能だ。勿論逆にBさんのAさんについても同様である。小生がCとして、更にDさんEさん・・・と友人が増えるにつれ、それぞれの一般的評価がぼんやり浮かび上がってくる。友人関係をあまり気にしない人間もたまにいるが、誰しも善く思われたいのが人情だろう。しかし己の評価だけは永遠に分からない。

何故か知らぬが東京都の猪瀬知事がとんでもない事件に巻き込まれたようだ。彼はたまたま高校の後輩で、会話を交わしたことはないが母校東京同窓会で顔を間近に見たことがある。東京には何の縁もなかったろうに、偉く出世したものだと半ば感心していた。事件の種は自らの行為に起因しているのは明らかなので、巻き込まれたとは適切な表現ではないかもしれない。先週末は今年最後のハイキングで、金曜日の準備から土曜日は早朝に出かけて帰宅してからは早寝し、ニュースを碌にチェックしなかった。

昨日やっと落ち着いてニュースに接したので、降って湧いたように感じてしまった。ところが今日ゆっくりネット情報を見ていると、どうも先月10月半ばには独立ジャーナリスト(元共同通信)青山繁晴氏がラジオ番組(ニッポン放送)で、徳田氏の選挙違反事件は裏に大きな汚職事件が潜んでいるとすっぱ抜いていたらしい。10月16日の放送だが今日聞いてみると、氏名は特定していないが、明らかに東京都の前知事と元知事をさして、金額も現知事については5千万円と言っている。(石原氏には3億だそうだ)

青山氏は当然検察内部に情報元を持っているのだろう。特捜が動いていることも示唆している。検察は徳洲会に狙いを定めて大分情報をリークしているらしい。徳洲会がそんな大それた組織とは知らなかったが、なんでも莫大なお金を使って病院ネットワークを構築してきたらしい。たまたま猪瀬氏がクローズアップされてしまったと言うことで、政界に流れたとされる使途不明金が70億円だそうだ。首筋が寒い人間は沢山いるらしいが、どこまで追及されることになるのやらだ。

はっきり言えるのは、猪瀬氏が残念ながら完全にアウトになることみたいだ。今日午後のテレビでしたり顔の解説者が「猪瀬氏と一緒に仕事をした人の全てが、二度と一緒に仕事はしたくないと言っている。」と語っていた。信州人はそうでなくても自己主張の強い人間が多い。猪瀬氏も才能があるだけに余計そうだったのかもしれない。同じ悪さをしても運の良い人もいれば悪い人もいる。人間関係が運を左右するとも思えないが、後輩だけに猪瀬氏は気の毒だ。

2013年11月24日日曜日

今年最後のハイキング


昨日は多分今年最後となるであろう山歩き、これで丁度12回目になる。朝7時に家を出て、池袋から7:30のレッドアロー号で飯能まで行き、そこからバスで名栗湖へ、9:30には棒の嶺能登山口に到着。紅葉の最盛期は過ぎているが雲一つない最高のハイキング日和。11:20には標高969mの山頂に到着。東から西までの180度の眺望だが、晴天に恵まれかなり遠くまではっきり見渡せる。

山頂はかなりの混雑で、小学生を含めた家族連れが目につく。写真撮影の後でゆっくり昼食。主食はお握りにチーズ、デザートはドライフルーツとミカンとお菓子、熱い麦茶が美味い。レジャーシートの上で裸になる訳にはいかないが、シャツを脱いでアンダーシャツ1枚での日向ぼっこ。快晴の上に無風なので汗がすぐに引いて、背中がポカポカしてきて実に心地よかった。思わず山頂で小一時間の長居は珍しい。

降りは奥多摩のJR御岳駅に向かった。途中の岩茸石山までは初めて歩く道だったが、ここは先程の登りと打って変わって殆ど人に出会うことも無く、快適な尾根歩き。と言ってもこのコースは「関東ふれあいのみち」で「山草のみち」として登録されているところで、春であれば草花が多いと紹介されているし、道の整備状況も悪くない。多分今年最後のハイキングなるだろう。

自宅を7時に出て夕方6時には帰宅できたし、交通費合計3千円に満たない。夕食時の缶ビール1本が何とも言えないくらい美味く喉に浸みた。千メートルに満たない山々の尾根歩きではあったが、それなりの疲労感はあるし大満足の1日だった。

山歩きの詳細は下記をご参照願います。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-374279.html

2013年11月22日金曜日

平和と戦争

昨日に引き続いて安全保障関連2法案に触れるのは、少し気が引けるが書いておきたい。この法案成立を了とする人の割合は、世論調査結果で見る限り3割を割っている。どんな人が含まれるか分からないが、前回、前々回の選挙で自公に投票し、安倍総理を支持している人が相当数含まれていることになる。しかし法案は圧倒的多数を持つ政権側が、なんの苦も無く成立させてしまうことだろう。今更法案に反対しても意味が無い。

次回の選挙までこの法案成立の過程を覚えてほしいものだ。それにしても野党はどうしてこうまでだらしが無いのだろう?(みんな)と(維新)は元々や党とは言い難いのでやむを得ないかもしれない。民主党までフラフラしているように見えるのは何故だろうか。政治の世界がかくも分かり難いのは日本だけではないだろうか。昨日の新聞は民主党玄葉光一郎元外務大臣が自民党の石破茂幹事長に次のようなお願いをしたと報じている。

「民主党が集団的自衛権の憲法解釈の見直しでまとまることは難しい。自民党政権のうちにきっちりとやってほしい」と。石破氏が内密の話をすっぱ抜いた訳でない。都内で開かれた討論会、即ち公開の席上で玄葉氏が臆面もなく喋ったらしい。民主党は反省すべき点が多いなと思っていたが、これほどとは思わなかった。もう野党第1党の態はとても保てないだろう。恥知らずの公明党と変わりない。たまたま野党の席にいるだけだったら、早いとこ解党して保守よりの人をはっきりさせてほしいものだ。

今や真に野党と呼べるのは(共産)(生活)(社民)だけではないかとどこかに書いてあったが、お寒い限りである。平成の偽装大政翼賛システムの行き着く先がどこになるか全く分からないが、今度日本が戦争に巻き込まれたらその戦争は容易に終わらない。後ろにいるのは世界一の超大国だから、そう簡単には敗戦にならない。先日飲んだ友人が語ったことを思いだす。曰く「日本が先の大戦の火ぶたを切ったことは良かったのでは、と思うようになった。」

「何故ならば、当時も沢山存在した理性派の意見が通って戦争突入が無ければ、我々も間違いなく若くして戦死したであろう。そして未だに軍国主義がまかり通っていたのではないだろうか。」逆説な言い方ではあるが、そうとも言える。300万人超とも言われる尊い犠牲のもとにやっと巡り合った平和な国家が、敵国であった戦勝国の傭兵国家になろうとしている。犠牲者の数は先の大戦に比べれば遥かに少ないとしても、傭兵国家から抜け出すには、先の大戦と比較にならぬ程、相当長い歳月がかかることになるだろう。

明日は晴れていい天気になるらしい。今のうちにのんびりと平和な山歩きを楽しむことにした。

2013年11月21日木曜日

何のため「安全保障会議設置」「特定秘密指定」か?

現在日本は危機にさらされていると聞くと、福島からの放射性物質拡散の問題かと思うとそうではないらしい。国会開催中とは知っているが、総理はしょっちゅう海外に出かけているようだし、新聞の見出しを飾るのはタイトルに上げた2項目の関連法案のようだ。これが何故喫緊の課題なのか理解できる人はかなりの政治オタクなんだろう。興味も湧かないのでどんなことを審議しているが知らないのに、テーマに取り上げるのもどうかとは思うが、疑問だらけなのでつい一言言いたくなってしまう。

竹島や尖閣列島や北方領土問題があるのは知っているが、竹島や北方領土は今に始まったことでもなく、誰がなんと言おうと子や孫の時代になっても何か進展がありそうだと考える人はどの位居るのだろう?尖閣列島は中国や台湾と話し合って漁業問題をきちんと解決さえすれば、当分平和にやっていけるのを好んで喧嘩を売っているようにしか見えない。埋蔵資源がどうのこうのと言う向きもあるようだが、月に行けばダイヤモンドが沢山あると似たような話だろう。

何れにせよロシア、中国、韓国あるいは北朝鮮が、先に上げた領土問題で、日本に戦争を仕掛ける準備をしているとは考えにくい。特に中国なんかは「まあ穏便に話し合おうじゃないか。」てな態度を見せているのに、日本政府の科白「領土問題は存在しない」と喚くばかりで説得力はない。まるで不良少年が「戦争結構、買おうじゃないか」と言っているのと一緒のことで品のないこと夥しい。話し合いに自信が無いからそんな態度に出ざるを得ないのかね。

挙句の果てに持ち出しているのが「積極的平和主義」とか「価値観外交」といった意味不明の日本語。これを持ち出してはアセアン諸国や湾岸の国にまで外遊している。とても難しい外交問題を抱えている国に赴いて、問題の処理にあたっているとは見えない。税金で集めたODA予算をばらまいてお世辞を言われ、一人でいい気になっているだけのようだ。問題を抱えている国とはまともな交渉をせず、問題無いことだけしかしようとしない総理を多くの国民が支持しているのだから国民もいい気なものである。

国民が覚醒していないことをこれ幸いと持ち出しているのがこの2法案だろう。国会では茶番じみた与野党折衝をしているようだが、所詮はアメリカに言われてアメリカの為に作る法律のようだ。法案成立の先に見え隠れするアメリカの戦争への参加について、流石のマスコミも警鐘乱打し始めているが時すでに遅しの感が深い。無関心を装うこちらも悪いが、こういった悪法をさり気なく少子化担当大臣に一つを担当させ、NSCに関しては官房長官担当とはしているが、実務に当たるのは殆ど中谷元、単なる安全保障委員会委員のこれまた童顔の先生である。

こういった悪賢さだけは見上げたものだ。

2013年11月20日水曜日

スポーツ・経済・文化の世界水準

毎朝起き上がる前大凡6時前後にテレビをつけ、テレビ朝日の「やじ馬テレビ」を布団の中でぼーっと(眠気眼の上に眼鏡をかけていないので映像はよく見えない)している。今朝は5:30に目覚めたが、特別番組でサッカー日本代表VSベルギー代表戦がブラッセルから生中継されていた。テレビをつけた時は前半戦半ばで日本が0-1で負けていた。小生がスポーツ中継を見ると、いつも応援するチームが負けるので観るなと言われているが、チャンネルを変えるのも面倒だったのでそのままにしていると、床を離れる6:30にはなんと3-1と逆転してしまった。

洗面を済ませる頃には終盤で3-2に追い上げられていたが、朝飯を食い始めると、何と日本の勝利が確定した。サッカーファンなら祝い酒を飲んで、今日は仕事にならないのだろうと言いながら、婆さんも上機嫌だった。ザックジャパンもこれで良い正月を迎えられそうで誠に結構なことだ。最近日本のスポーツは本当に強くなったと思う。来年は冬季オリンピックやサッカーワールドカップも開催されるし、アメリカメジャーリーグに楽天から田中投手が移籍するかもしれない。相撲で外国人が頑張るのも結構だが、日本人も世界で益々活躍するだろう。

トップレベルの選手たちのトレーニング法については既に世界水準のことを取り入れているだろうし、日本人は器用なところもありそうなので技術的にはかなりのレベルに来ている種目が多いのだろう。左はさりながら良くなっていると言っても、身体機能面では未だ世界的な水準に至っていないようだ。バスケ、ラグビー、アメフトなんぞはどうしても身体機能がものを言いそうだ。改善は何世代かを経る必要があるだろうが、まだ成長の可能性があると楽しみに待てばいいだろう。

兎も角スポーツと経済に関しては、日本はこの僅か半世紀ほどの間にめざましい進歩発展を遂げ、戦前と同じかどうか分からないが世界水準に近付いているのは間違いないだろう。問題は文化面ではないだろうか?学術の世界ではノーベル賞も毎年とは言えないまでも結構受賞者が出ている。芸術の世界は疎いのでよく分からないが、どうなんだろうな?音楽や映画の国際コンクールで時たま日本人が受賞することがニュースになる。このこと自体が日本が世界水準に追い付いていないことの表れでないかと邪推するが、叱られるかもしれない。

絵画や文学についても日本人の作品が世界で絶賛とはあまり聞かない。それよりなにより、ティーンエイジに読み耽った世界の名作を思うと成人してから世に出た世界的名作なるものが思いつかない。個人的にはフランスのデュマ兄弟が一番好きで、英国ではシェクスピアは難しすぎるのでコナン・ドイルかな。遅れてきた文明国のアメリカにさえマーク・トウェインが居たし、ドイツにもイタリアにもアラビアにも中国にも世界中の子供が親しむ名作があった。

社会に出てから生まれた世界の小説の中ではノーベル賞受賞作品の「収容所列島」ソルジェニーツィン著が印象に残っているが、これも読んだ記憶が無い。美術もピカソも亡くなったようだし、これから数百年後まで残る世界的名作なんてあるのだろうか。進歩はしているように見えるが、世界的にも文化水準は低下しつつあるのではと、ふと心配になった。

2013年11月19日火曜日

ちょっとした事

友人からホームページの件で相談を受けたのだが、昨夜少し飲んだので朝のうち頭の回転が悪かったのかもしれない。OCNという大手のプロバイダ(インターネットの接続業者)サービスにユーザーのホームページを無料で公開してあげます、てなサービスがあるらしい。友人はこれに目をつけた。ホームページは最初に製作する費用の他に、これを維持していくために費用が発生する。
ドメイン維持費(ホームページの所在地を確定する費用)と所在地に置かれたサーバー(パソコンのお化けみたいものです)費用が毎年必要になります。

大した金額でないかもしれませんが、毎年のことですから払わなくて済むならそれに越したことはないでしょう。相談を受けて、それは結構だから大いに利用したら良いでしょうと薦めた。ところが友人曰く「OCNから言ってきたことが横文字絡みで意味をよく理解できない。」だったので一応電話で解説して納得頂き、友人が挑戦したが上手く運ばないとの事。また電話が来たのでOCNからのメールを全て転送してもらった。

現在のホームページは小生の個人サーバーに置いてあるので、これをダウンロードしてOCNのサーバーに引っ越しをさせるだけのことで大した問題は無い筈である。新居の住所に匹敵するアドレスについてきちんとした情報さえ入手できれば、15分もあれば引っ越しが完了する筈だった。友人が送ってきたOCNの情報を確認して朝一番に作業してみた。簡単にいくと思ったことが、何度やってもエラーになってしまう。

面倒くさくなったので、元の会社のスタッフ即ち専門家にサポートしてもらうことにして、電話をすると生憎と外で仕事の最中。「メールで必要情報を送っておいてもらえば午後帰社してすぐ連絡します。」とのことでメールを転送。元々仕事を依頼してきた友人は今日は会社が休みでこれも外出らしく電話が繋がらない。こちらも昨晩のお礼やら何やらがあって、ボランティアを頼まれたこの件は忘れることにした。

ところがランチウォーキングをしていてハッと気が付いたことがある。まるきり単純なことなので書くのも恥ずかしいが、住所表示絡みのことである。サーバーなるものは部屋が細かに仕切られている。ひょっとすると同じ号数でも階数を間違えていたに違いない。スタッフに依頼をしたのが恥ずかしくなって、昼飯をそこそこに急ぎ帰って作業をして見た。やはり気付いた通りで、引っ越しはあっという間に完了した。幸いメールしたスタッフにお詫びのメールを送信、彼は未だ帰社していなかったので助かった。

囲碁なんかでもよくあることだが、問題個所に直面した時に自分ではいろんな方法を試したり考えているつもりでも、肝心なところを見つけずに枝葉末節で堂々巡りを繰り返して失敗に至ってしまう。今日はたまたま時間的余裕があったので散歩しながら頭を切り替えることが出来た。先日もプリンタの不具合の調整を依頼され1時間以上試したがどうしても上手く行かない。堪らずメーカーのサポートに電話をすると、何のことはない印画紙の裏表が逆になっていただけのことだった。

騒ぎの割には大したことでないことがよくあるものだ。

2013年11月18日月曜日

廃品処分が問題 

小春日和の月曜日、暖かいこともあるのだろう、加えて暫く山歩きを休んでいるせいか足腰が大分軽くなったような気がする。やはり山歩きは大分負荷が大きいと改めて実感している。今のところは並足ストリートウォーク約1時間が一番体に合っているようだ。例え1日5キロ程度でも毎日続ければ、健康上は少しは役立つだろうと信じている訳である。ところで歩行と言えば履物が問題だ。近くのスーパーで2千円ぐらいのスニーカーを2足買って1日交代で履いているが、靴の裏の減りが結構速いように感じる。大凡1年では履き潰してしまうだろう。新しいスニーカーを購入する時はその場で履き替え、古いのを処分してもらっている。

それでも昔に比べれば、履物も大分長く持つようになった。小中学生の頃も下駄の歯の減りが早く、更には下駄を割ってしまうことが多かったので母がよく嘆いていた。高校に入ると高下駄を履くようになったので、流石に下駄が割れることは少なくなったし、高さがある分大分長く履けた。いよいよになると下駄屋で歯の交換をしてもらったのが懐かしい。思い起こしてみると、当時から歯の減り方が均等でなく外側の減り(片べりと言った)が激しかった。今でも靴の減り方が同じで、歩き方が偏らないように気を付けているつもりでも全く進歩が無いのが情けない。人間本質的なところは何事によらずなかなか進歩できないものだ。

兎に角、僅か1世代のうちに衣食住環境の変化がこれほど激しい世代は、今後を考えても珍しいのではなかろうか。例えば現在二人暮らしの我が家でも、下駄箱の中には下駄が1足もない上に靴が収まりきらない程詰め込まれている。多分どこの家庭でも似たようなものだろう。昔の下駄箱には父の革靴1、2足と両親のよそ行きの下駄に足駄くらいしか入っていなかったので、中を覗けばきちんとしたものだった。当時7人家族の下駄箱と現在我が家のそれと大きさは同じくらいだが、中の落ち着き具合は雲泥の差だ。

収拾がつかぬほどと言えば、衣類や本なんかも同じことだ。元来買い物なんか好きではない口と思いながらも半世紀近く経つと、衣類や本が随分溜まってしまう。本は2回ぐらい思い切って全処分したが、また段々溜まりつつあるのが気になる。衣類は処分のしかたが分からないので、襤褸に囲まれて生活しているようなものだ。従って狭い我が家は益々狭くなる。

広さ的には中学時代に7人家族で生活していた家とさほど変わらないと思うのだが、当時の家の佇まいが懐かしい。昼間は各部屋の用途に応じた空間が確保され、全ての衣類や布団は両親の部屋に置かれた洋服ダンス1本と和ダンスが3本か4本とそれぞれの部屋の押し入れにが格納され、部屋の中に衣類がぶら下がっている光景はどうしても思い出せない。今の我が家には、もし客が来ても落ち着ける空間がゼロである。

新婚したての頃は毎晩のように会社の友人を招待して泊まってもらったが、今やそんなことは夢の又夢になってしまった。我が家のゴミも原発の高レベル放射性廃棄物も似たようなものだ。笑

2013年11月17日日曜日

結局何も変わらないのか

党首討論のハプニングにも見えた衆議院解散があったのが、1年前の11月16日だそうだ。早いもので昨日で丸1年経ってしまった。この1年で変わった事と変わらない事がありそうだ。我が身の周辺はあまり変化が無い方だろう。孫たちが順調に成長するにつけ、我が身と彼らの距離が拡大の一途を辿っているのが寂しいだけのこと。でも自然の摂理みたいもので、世代交代に向かっているのだから仕方がない。

問題は日本社会全般を見た時である。総選挙を経て新しい政権が誕生して、変革に向けてのロケットスタートを切ったと譬えられたものだ。目玉は言うまでもない「アベノミクス3本の矢」と称する経済政策。マスメディアは年初から散々もて囃し、やれ景気が上向いた、株価が上がっている、賃金が上がりそうなのでデパートやスーパーの売り上げが伸びていると報道してきた。しかし秋口に入り臨時国会が始まると、この場で3本目の矢が射られるはずなのに、一頃のような威勢のいい話は聞こえてこない。

「アベノミクス」が本年の流行語大賞になるのは間違いないだろうが、芸能人でもない総理が発した言葉が流行語大賞を獲っても、それだけでは全く無意味である。脱デフレ景気向上、家計所得の向上、財政収支改善などの実質的な効果が出ないことには始まらない。ところが最近の報道に「アベノミクス」が特筆大書される機会が減ってきているように感じていた。むしろ企業業績の改善は、その殆どが円安効果に依存し、自動車や家電製品の売れ行きが伸びた事実は見られないとの報道があったりした。

そこに持ってきて先週半ばに2013年7-9月期GDP速報値が発表されると、この週末にかけてむしろ「アベノミクス」腰折れ論が踊り始めている。ネット上では発表当日の13日前後から、しきりにそれ見たことかといった情報が氾濫していたが、今朝のTBS「時事放談」に出演した元自民党幹事長古賀誠氏でさえ、「アベノミクス」経済政策が上手くいく筈がないみたいことを言い始めている。現役でないとはいっても、自民党では未だ隠然たる力を持つと言われる御仁のお言葉だ。

異次元の政策とは論理的根拠がないことを自ら証明しているのだから仕方がないと言えばそれまでだが、先週末に1万5千円の大台に乗ったとされる株価頼みの政権が、不謹慎ではあるがどこまで持ち応えるのか興味津々になってきた。
とは言っても、取って代わる政敵が不在では倒れたくても倒れようがないのか?我が国もいよいよ情けないことになってきたものだ。総理本人は国会などどこ吹く風で外遊あそばされているが、手の者に任せているのが「特定秘密保持法案」に「日本版NSC法案」と訳の分からない奴だが、鳥越俊太郎氏は「戦争をしますと言っているのと一緒」と仰っている。

一方で変わらないのが福島の原発事故対応だろう。騒ぎだけはご大層なもので、特に最近は前政権の初動が間違っていたのを修正して政府が前面に、とか言っているが現地の復興が全く進まないのは全く変わっていない。むしろ、原子力規制庁の実現もなく、環境省外局にもならない規制委員会のままは良いとしても、田中委員長もすっかり骨抜きにされてしまったようである。前途が思いやられる。

2013年11月16日土曜日

嗚呼「寄らば大樹」

小学生の頃だったろうか、どこかで「木鐸」という言葉にぶつかり辞書で調べた記憶がある。今ネットの辞書で調べると「古代中国で、法令などを広く人民に示すときに振り鳴らした、木の舌のついている大きな鈴」と出てきた。当時も大体似たような意味で、日本ではあまり見かけないのでぴんと来なかった。しかし、暫くすると「社会の木鐸」の使われ方があり、道標や世の人を教え導く人を指すと知った。日本では近代国家成立以来新聞が出現し、政令に反すること書いたにも拘らず「社会の木鐸」と呼んだ。しかしこれも創業者世代に限ったことだったかもしれない。太平洋戦争開幕直前に、開戦に最も積極的だったのは新聞各社だったことは余りにも有名である。

現代子は古めかしい「木鐸」なんて言葉は知らなく当然だろうし、テレビや新聞に教え導かれるつもりはないかもしれない。つもりはなくてもテレビや新聞の報道を見ていると、その影響を受けずにいることは先ず不可能だろう。理屈から言えば、テレビ局も新聞も沢山種類があって、選択の自由が視聴者側にあるので、特定のメディアに毒される心配は少ない筈である。複数存在するメディアが、それこそ社会の木鐸として創立の精神を以て報道にあたってくれていれば問題ない。

しかし現代に於いては社会の木鐸としての矜持を維持しているのは、共産党とか創価学会とか農協等の組織が、組織強化の目的を掲げて発行するもの以外に無いのではなかろうか。マスメディアと称される現在のテレビ新聞で世の中を導く方向を明確にしている企業は1社もない。何時も成り行きに流されている。視聴していて気になるのは時の政権への迎合が極端すぎることである。明治維新後に生まれた新聞は、自らを社会の木鐸と称しただけに、発行人はそれなりの見識を持っていたと仄聞する。

現代日本のマスメディアはその社会の木鐸として誕生した新聞の流れをくむ企業が多いので、ジェスチュア的にはそんな振る舞いをしたいようだが、とても見られたものではない。時々思いついたように如何にも庶民の立場に立っているような記事を掲載することもあるが、本質的には全く政権に迎合している。新聞で言えば中央5紙があり、産経と読売は政府寄り、朝日と毎日は少し左寄りなどと言う向きもあるが、全く内輪での目くらましの小芝居に過ぎない。

その先兵がテレビになるのだろうが、これこそまったく選ぶところが無く、全ての局が同じ情報を繰り返し繰り返し放送を続ける。大島やフィリピンの台風被害の報道がどれほど重大か、異を唱えると非国民にされかねないが、こう繰り返し見せつけられれば嫌でも刷り込みがなされてしまう。社会ネタは仕様が無いとしよう。しかし国内の政治関連報道や海外のニュースに関強いても取り上げ方が殆ど同じであるのは如何ものだろうか。昔は日本教育テレビ(テレビ朝日)とか東京12チャンネル(テレビ東京)なんて会社が出来て、或いはなんて期待もしたが、なんてことはなかった。

少しでも政権に異を唱えそうな解説者は出演させてもらえないのだから、賛否両論ショーとして構成しているだけだ。それでネットでブログやメルマガを好んで見ていたのだが、それさえ相当怪しくなってきた。ブロガー(勿論未だにテレビ出ている)でも2年ほど前までは小沢一郎の熱烈なファンを演じ、現在は安倍氏を恥ずかしいくらいヨイショしている人物もいる。小泉純一郎ではないが、権力者が旗を振ればそれに靡くのは人の性なんだろうか?

2013年11月15日金曜日

早や年末気分だ

世の中に五感にて感知しえないものは沢山ある。特に視覚と聴覚は加齢とともに劣化するので、最近では別に隠れた存在でなく身の回りの存在でも少し遠くのもの小さいものなどは気がつきにくいし、聞こえなくなっている音も随分あるだろう。このところ友人との会話で躓いて転んだ話、階段を踏み外して転げ落ちた話が続いている。反射神経や筋肉が衰えてくる上に視聴覚の劣化が重なるのだから、日常生活の危険は増すばかりだ。

山で転倒はしょっちゅうなので、トレーニングのつもりで日頃極力歩くことに努めている。その中に毎日100段程度の階段昇り降りを入れている。先日登り始めた階段の上から、小学生らしき子が1段とばしに駆け下りてくるのに出会った。それを見て真似ようとしてみたが、まるで真似が出来ない。昇るのは無理すればできないことはないかもしれないが、降りになると全く怖くてできない。無理して1、2歩踏み出してみたが、連続してトライしていたら必ず転んで怪我をしたことだろう。

今日も横断歩道で信号が変わりそうになったので、20メートルほど小走りに走ったらそれだけで膝がおかしい。今年山で世話になった元自衛隊員の方から降りが慎重すぎるからと注意を受けたが、やはり体力相応と言うことがある。これからも登り降りとも小俣でゆっくりペースで行かざるを得ない。先月までは月1回ペースの山歩きが出来たが、どうも年内は山に行けないかもしれない。明日はもう週末で、予報は晴れると言っているが、今日現在の天気が悪いし、ここ数日続いた冬模様で腰を上げる元気が出ない。

先週の週末は同窓会で長野に行ってしまって水泳もサボってしまった。水泳を2週続けて休むのも一寸気が刺す。そのうえに今年は何故か忘年会めいた会食の予定が立て続けに入ってきてしまった。今年も余すところ1か月半か、勿論日帰りで十分なので、どこかでもう1回山に行きたいものだ。

2013年11月14日木曜日

日本の都市化を思う

先日久し振りに新宿の街を歩いてみた。18歳で上京してすぐ住んだ街だけに、その変貌ぶりは感慨深いものがある。駅の様相は全く異なっているし、歩いた範囲で当時の面影を残していたのは百貨店の伊勢丹ぐらいか。西口方面は再開発で通りの構造自体が全く異なっているが、東口から歌舞伎町方面の通りは殆ど変化が無いようだ。きっと土地の権利関係が複雑すぎて手の付けようがないのだろう。相変わらずチマチマした建物がひしめき合っている、火災でも起きた日には難儀なことになるだろう。

目に見える決定的な違いは都電の線路が無いことで、見えない違いは地下街が発達して都市が二重構造となったことだろう。地下街なる言葉や概念が出現したのはいつのことか思い出せないが、上京した頃には未だ無かった筈である。あったとしても空想や漫画の世界のことだけだった。しかし、その頃には地下鉄丸ノ内線が何処からだったか(池袋ではなかったように思う)新宿まで到達しており、新宿に住み着いて暫くするとその延長のための工事が始まった。

住んでいた安アパートは西へ延びている青梅街道沿いから少し路地を入った場所で、国鉄新宿駅西口まで下駄ばきでも10分も掛からず行ける便利な場所だった。しかし工事が始まると、青梅街道が毎晩通行止めがされて道路の下を掘り始めた。因みに現代の地下工事は、地上生活には関係することなく進められる技術が開発されているようだが、当時の工法ではそうはいかなかったらしい。夜間通行止めが何で必要だったか未だに知らないが、昼間は道路上に枕木のような太い木材で蓋がされていたことを覚えている。

社会インフラの整備は結構なことで、今や日本全国どこへ行っても道路は完全舗装されているので、小さな子供たちは道路と言えば舗装道路しかイメージできないだろう。しかし人工の構造物は必ず壊れたり壊してリニューアルしなければならない。同じ人工的なものでも自然の姿に調和していたものであれば、災害の被害にあっても比較的復旧がスムースに行くと思うが、人工的なものの場合は結構厄介だろう。これも最近は造る時から壊す時のことを想定するようになっていると聞くが、この工法を取り込み始めているのは古い話ではない。

都庁舎のリニューアルの話が出ているので、当日西口にそそり立つ庁舎を見上げて、なんであんなに馬鹿でかいものが必要なのか考えたが当然理解不能だ。上京してから半世紀以上が過ぎた。今までは日本列島を改造して暮らしを豊かにするために細やかにお納めした税金が注入されたのだろう。お陰と言うべきかどうか、やっと所得が無くなり細やかな納税は一層細くなって最早勘定の中には入らないだろう。かくしてこれからの税金は主に修繕のために使われるとなると、これまでの繁栄の享受が子孫に申し訳ないような気がしてしまう。

2013年11月13日水曜日

小泉劇場 どうする安倍さん

小泉純一郎氏は好き嫌いで言うと嫌いな人物の一人である。理由は幾つかある。気障で如何にも薄っぺらな感じ、特段の勉強をしたわけでもないだろうにワンイッシュー・ワンワードで政界を振り回したのだから役者とすれば立派と言えようが、政治家には相応しくない。思い込みが強くて他人の忠告に聞く耳を持たない。結果として政治にポピュリズムを持ち込み、政治の形を劇的に変えたばかりでなく、自主独立を目指してきた我が国を完全に植民地化する方向に切り換えるきっかけを作った。他にもあるがこれくらいにしておこう。

但し、認めなくてはならないことに演説の上手さがある。目玉のワンフレーズをいろんな角度から断定的な言葉を積み重ねて説得するのは、善悪は別としてまさに現代のテレビコマーシャルと同様で、非常に説得力を持ってしまうことは認めざるを得まい。安倍総理の科白の分かり難さとは対照的である。その彼が、このところ脱原発発言で注目を集めている。趣味の音楽や芝居鑑賞の日々で、優雅なな隠居生活を楽しんでいるばかりと思っていたが、以外に生臭い。夏ころからの関連発言は、何かの目標に向かって積み上げられてきたようだ。

昨日、満を持してかどうか知らないが日本記者クラブでの記者会見と来た。取り敢えずその会見を通しで聞いてみた。記者クラブでの会見は8年振りだそうだが、相変わらずの小泉節である。論理構成にはかなり説得力があり、ネット上でも、彼の思い込みはかなり本気ではないかとの意見が見られるが、そのように感じてしまう。こちらが単純なせいもある。問題は安倍総理に呼びかけるスタイルの会見であり、自ら再び陣頭に立っての気構えが無いので、盛り上がらないだろうし、腹に別の一物があるのではの論もある。

会見の前日に石破自民党幹事長が「小泉さんの言っていることは我が党の方針とほとんど同じ」と発言した。これを裏付ける為だったようだが、読売の記者(再稼働推進の立場と自ら言っている)の質問「脱原発と言っても時期はいつからか?」に対して「即すべき」と間髪入れずに答えている。明らかに読売の記者が期待した答ではなかったようだ。もし芝居だとしたら、こうは行かなかっただろう。自分で政界に復帰して旗を振りたいとまでは思わないが、自民党をして脱原発に方向転換させたい気分は相当感じた。

先日の同級会で、現在も日本原電に籍を置いて放射性廃棄物に含まれる放射性物質の半減期を減らす研究している友人と同室になった。脱原発にシンパシーを感じていることを断ったうえで彼の考えを聞いてみた。彼の論点を要約すれば、高レベル放射性廃棄物の処理については技術は確立しているし、量も石炭なんぞに比べれば比較ならない程少ないから脱原発なんて選択肢は考えられないとのこと。その夜はそんなものかと思ったが、小泉氏のフィンランドのオンカロ処理場見学の話を聞くと、どうもそうとも言えないようだ。

オンカロの施設は実に広大(岩盤の地下400mで2㌔×2㌔の空間)であるが、原発4基運転中のうち2基分の廃棄物しか受け入れ出来ないらしい。フィンランドでも他の土地が見つからなくて困っているとか、数万年埋めておいて、未来の人類がここに近付かないようにするために、危険を如何なる文字か記号かで知らせるのか頭を痛めているらしい。こんな逸話を挿入したりして、演説では人を逸らさない。昨日のニュースを見る限り、総理周辺からの反論は出ているが、総理自身は一言も発していない。駅で夕刊紙の広告を見ると小泉-小沢と提携なんて書いてある。安倍さんさぞ困っているのだろう。

2013年11月12日火曜日

中学時代の恩師(Ⅱ)

もとより教育とは縁遠い人間なので、最近話題の教育問題については理解できないことが多い。いじめをなくす方法を偉い先生方が真剣に考えてくださっているようだが、偉い先生や元ヤンキーの兄ちゃん代議士が良いアイディアを出してくれるなら結構なことだ。ただ、愚考するのはいじめなんてことはそれこそ千差万別であろうから、どんな法律が出来ようと役所が学校にどんな通達を出そうと、それで防げるいじめなんてものは無いだろう。

いじめによる自殺事件が発生した時の学校側の言い訳は、いつも決まって「気が付かなかった」の一言に尽きる。酷い時には両親の方が心配になって教師側に相談している場合さえある。報道を見て、こんな時は教師は当てにならないから警察に相談した方が良いのではと思ったりしたが、ストーカー事件への対応なんか見ていると、その警察でさえどのように機能してくれるのか甚だ心もとない。

一昨日同窓会で中学校時代の恩師と再会してきただけに深く感じていることがある。現場の実態を知らずに言及しているのは承知なのでお許し願いたい。モンスターペアレンツが多いことにも関連してくるが、現代の義務教育現場では先生と児童のコミュニケーションが極めて薄い実態になっているのだろう。親が学校教育については一切先生にお任せします、と中々言い切れない背景は何だろう?先生の方も親から子供を預かったとは思っていないのかもしれない。

先生は子供の成長に関して、上手く言えないが、特別に切り出すことが出来る「何か」を伝授することだけを引き受けているつもり。だから全てと言われても困ります、という顔が思い浮かんでしまう。しかもその「何か」は民主主義の良いところかもしれぬが、生徒全員に等しく与えられるべきものらしい。それの受け止める生徒側には当然能力の個人差があるので、受け止める量に差が出ますのでご承知願いますが一般的になっているのではないか。

近年、学校は与える或いは授ける立場、生徒はそれを受け止める或いは頂く立場の授受の関係が明確になっていて、その役割に基づいて互いに努力するのが基本のようだ。これも当たり前だが、別に先生に罪がある訳ではない。政府がそうしろと言っているのだろうから仕方はあるまい。目標は授受の量で計られている。授受の関係は昔だって同じかもしれない。しかし少なくとも我が先生方はそれだけでなく、もう一つ大きな目標を持っていたと思う。

今になって気が付いたのだが、親に代わって生徒一人一人の性格を把握しながら、個人の性格に合う、個人が一番興味を持つことの発見に教育の重点を置いていたように感じてならない。そのためだったのだろう、先生方は我々とよく遊んでくれた。休み時間だけの話ではない、学校から帰っても担任の先生が宿直の日は夜遊びに行ったし、休みの日に学校行事とは別にプライベートで悪がきを集めて野山に遠足にも連れていいってもらった。

担任が理科の先生で、植物や昆虫に個人的にも趣味があったにしてもだ。もし音楽の先生であれば音楽の好きな子は自宅に押し寄せていただろう。

実は道徳教育を教科にすると聞いて、読み書きも満足に教えられない現場に更なる無理を強いる馬鹿な政府方針に異論を唱えようと思ったが、前書きだけになってしまった。

2013年11月11日月曜日

中学時代の恩師

一昨日の土曜日から日曜日にかけて、信州戸倉上山田温泉の旅館で中学の同級会があり出席してきた。48名のクラスメイトで出席者が16名、鬼籍に入られた方も7名いらっしゃるとのこと。半世紀以上振りで顔を合わせた友人もいたが、全員何処かに当時の面影が残っている。小生なんかもそうらしいが、確かに一寸見の第一印象が変わっている友人もいるが、人間の本性と言うか地金と言ったものはそう簡単に抜けぬものだ。

たちまち童心に帰り、思い出は一晩語り合っても尽きなかった。特に嬉しかったのが担任と副担任の2先生にご出席頂けたこと。担任のT先生は大正13年のお生まれ、昭和と年齢が同じとのことで89歳、副担任のK先生は大正11年のお生まれの92歳で、既に誕生日を過ぎていらっしゃるとのことだから93歳目に入っておられることになる。お二方とも矍鑠たるもので、背広にネクタイの正装をしてこられたのに、不出来な生徒側は誰一人としてネクタイ姿が居なかった。

こちらはセーター姿で礼を欠くこと甚だしい。これもまたご教導いただいた当時の姿に変わるところがなかった。20歳も若いくせに生徒側は極めて意気地がない。酒を録に飲めなくなっている手合いが多い。小生も本当はそうなのだが、何と言ってもガキ大将の面目を保つために注しつ注されつ強か飲んでしまった。従って会話の口調も当時のまま、酒がが入ったので余計ぞんざいになっていたかも知らぬ。それでもやはり先生には敵わない。

7年ぶりに開かれた同級会も次回はいつになるか分からない。先生からは次回に出席できるかどうか分からない趣旨のご発言もあったが、生徒の方が余程その可能性が高く感じられてしまった。伺うとK先生は師範学校を2年半で繰り上げ卒業されて土浦の海軍に、T先生は3年生に進級と決まったところで徴兵延期が打ち切られて金沢の陸軍に配属されたとのこと。T先生の場合は約半年で復員、9月24日に卒業式が行われて、翌25日には現在は長野市内となっている若槻地区の小学校に送り込まれて、いきなり60人学級の教壇に立たされたとのこと。

当時は未だ疎開児童が多かったので、そういう状態だったらしい。我々の担任となられたのは昭和28年かと思うので、世の中も少しは落ち着きが出始めていたのだろう。とは言っても無い無い尽くしであることに変わりはない。先生方の個性が生徒との触れ合いに反映されていた。であればこそ、60年も過ぎた今でも、互いに楽しく語り合える思い出を共有することが出来ているのであろう。先生方のお話にも出たが、これが現在は、先生方にはなにかにつけ文科省の規格が押し付けられ、生徒にはこれまた同様にパターン化された未来像が押し付けられているので、そうは行かぬだろう、である。

因みに集まった16人の中学卒業後の人生を見れば、個性の現われが実に興味深い。卒業と同時に石屋を継いだ者、彼が今でも一番元気で社会的に最も活躍している。高校を経て東大を卒業した者が二人もいるし、書き始めると止め処ないので止めておく。兎も角、生徒の方は子供のことだから脳天気に毎日を楽しく過ごせば良かったのだろうが、先生方は50人近い子供の個性に思い馳せ、毎日がさぞ悩み多い日々であったのだろう。こちらは先生方を困らせて喜んでいたのだから罪は重い。両先生とも現在は人間に替えて大地に育つ植物の管理と観察を続けておられるようである。きっと罪深い生徒より相当長生きされるような気がする。

2013年11月10日日曜日

読後感「原発ホワイトアウト」若杉冽著

著者は経産省の現役官僚で、身分を隠すためにペンネームを使用しているとのこと、また未だ省内で著者が特定されていないとも聞いた。知ったのは元経産キャリア官僚の古賀茂明氏のブログである。そりゃ面白かろうと大枚を叩いて購読したが、正直なところ期待外れと言わざるを得ない。古賀氏も言っていることではあるが、2年半前の東電副一大事故を教訓として、以来原子力発電所の安全性確保について外見的には様々な施策が講じられている筈である。しかしその実態は殆ど何も変わっていない。

それを証明するためかのように、フィクションの形を取って世に出されたのが本書とのことだった。確かに形は小説風にはなっているが、小説とは言い難い。ストーリー性が無いに等しいのである。一応は近未来のある大晦日、折からの爆弾低気圧がもたらした大雪の中で、外国人によって日本海側から首都圏に繋がる高圧送電線ケーブルがテロリストによって簡単に2本ほど倒され、それが原因で日本海側にある原発で福一と同様の事故が発生する、といった放送紙には包んでいるが、ストーリーはそれだけのことである。

90%を占めるであろう中身は18章に分断され、この2年半に報道されてきた原発を巡る報道の中で登場したメディアの取材対象を適当に名前をつけて登場させ、政官財癒着の問題点をクローズアップしようとしているようである。当然いろいろなニュースを繋ぎ合わせているので、無理が目立ってしまう。例えば、新潟県泉田知事キャラクタの上に佐藤栄佐久福島県元知事を被せて、逮捕されてしまう設定をしている。

中身の方には別建ての主人公も用意されている。福島の畜産農家出身で、父が風評被害等を儚んで自殺してしまった元テレビ局キャスタと、資源エネルギー庁の安全・保安院から環境省原子力規制委員会に横滑りした若手のキャリア官僚の二人が一応それにあたる。正義感に燃えて規制委員会の無力ぶりを正義感に燃えてマスコミにリークして、結局国家公務員法違反で逮捕と、まるで最近のニュースを手当たり次第に掬い上げたい気持ちばかりが先行している。

故に深みや新鮮さが全く伝わってこない。政策変更の目玉が経産省の中にあった原子力安全・保安院を廃止して、環境省に原子力規制員会を設置していることで、原発推進と規制側を明確にしたことにあると言われてはいる。しかしそんな程度のことで従来のずぶずぶの関係が無くなり、厳しい規制が行われつつあるなんてことを信じている国民は、本書を手に取るまでもなく皆無に近いだろう。現役官僚が書いたと言うことさえ宣伝の手段に過ぎぬのではと言われたり、反原発陣営のご粗末さ証明の為に推進派が策を弄したのでは言われてしまう所以でもあろう。


2013年11月8日金曜日

何が作用したのか?

少しひんやりしているがお天気が回復した。本当は今日まで雨降りが続いても良いから週末の2日間は晴れてほしかったが、そう都合よくは行かないらしい。
明日の夕方長野の上山田温泉で中学校の同窓会があるので、明日出掛けて明後日は碓氷峠を散歩したいと計画していた。天気予報を見る限り雨模様になっている。それでも歩くかどうかはまだ未定。何と言っても霧が有名な場所だ。視界の効かない中を歩くことほどつまらない事はない。

どうでも良いようなことだが、安倍政権のすることが挙動不審のようだ。元来意志が弱い人間がやたらに強がると思っていたが、どう考えてもおかしい。庶民には知られたくないだろうが、親分と頼むアメリカとの折り合いが余程ぎくしゃくしているのか。朝日新聞しか読んでいないのでネットを見てびっくりしてしまった。読売の1面トップに来ていると知って昼飯を態々読売が読める店に行ってしまったほどだ。

俄かには信じがたいが、安倍総理が集団的自衛権行使の見直しを先送りする方針を固めた、大々的に書いてある。安倍氏の外交・安保政策の目玉は憲法9条を変えてでも集団的自衛権を行使することにあったように記憶する。これが少し無理と見るや内閣法制局長官人事の強行をしてまで、段取りしてきたのではなかったか?個人的には非常に不愉快に思っていたので、丁度いい塩梅ではあるが、不思議な話だ。

公明党がまだはっきり意思表明をしていなかったとはいえ、公明党も政権の甘い蜜には抗しきれず、屁理屈をつけて何れ賛成に回るのは必至とされていたのに何故だろう?日中関係を一層悪化させることに繋がりかねないので、安全保障政策の見直しを少し先延ばしするとの言い訳のようだ。日中関係をそんな上品に慮る安倍総理ではないだろう。これまで中国に対して言いたい放題の罵詈雑言をぶつけていたのは何だったのか?

余程アメリカにきついことを言われたに違いない。政権がお灸を据えらるだけなら、庶民の一人として歓迎できるから我慢もしよう。しかし問題はその先である。恐れ入って益々アメリカの言いなりになり、高い玩具は買わされたりして資金は吸上げられ経済的損失が激しくなったり、農業政策の変更やらなんやらと、まるで米国の植民地よろしく日本の国益が毀損されていくことになりそうなのが心配だ。

週末は2日間また報道とは無縁に過ごすが、週が変われば政権に何が起きているのか、自然に洩れてくるだろう。

2013年11月7日木曜日

最近の流行語「国家」

昨夜は親しい友人と久しぶりに会って、つい調子づいてしまい少し飲みすぎたようだ。昔は少しいける口ではと自負した時もあったが、最近はからきし意気地がない。基本的にはそんなに飲める体質ではなかったのだろう。若い時分は飲むのが仕事のようなものだから、緊張して頑張っていたのかもしれない。笑

今日中には国家安全保障会議(日本版NSC)設置法案が衆議院を通り、今月中には参議院での審議も終わって正式に成立するらしい。昨夜も何とかならぬものですかねと話題になったが、爺が二人で嘆いたところで屁のツッパリにもならないのは明らかだ。安倍政権の復古調には歯止めの掛けようがないので、次の選挙までに日本がどう変わってしまうのか、ハラハラドキドキしながら見守る他はないのだろう。

安倍政権が誕生したのは昨年末だからもうすぐ1年になろうとしている。報道ではしきりに世の中が明るくなりつつあるようなことを言っているし、今朝の新聞にはトヨタの利益が1兆円の大台に乗ったと出ている。国民のどのくらいが安倍政権を歓迎しているか知らぬが、支持率はきっと5割を上回っているのだろう。結構だとは思うが、隠居生活のこちらは気分が暗くなる一方だ。先は長くないので、年金が少々減ろうと欲ボケして落ち込んでいる訳ではない。

気分が暗くなる一番の原因は、やはりこの政権の復古調とアメリカべったりの自主性の無さである。アメリカべったりも良いが、肝心のアメリカからさえ馬鹿にされているのに気が付かないでいる馬鹿さ加減だけは我慢できない気分だ。防衛大臣が、日本も盗聴の対象であったのは当然のこととニューヨークタイムズに書かれ、記者会見で呆然としたらしいが、本気で同盟関係にある日本が盗聴対象になる筈がないと思っていたのだろうか?

まるで冗談のような話ではないか。対中関係が上手くいかないので対ロ関係に打開点を見つけるつもりのようだが、ロシアからすれば飛んで火にいる夏の虫同様にあしらわれ、美味いところを利用されるだけで、領土問題など議題にもしてもらえず、中国は友好国だから悪口は聞きたくないと釘を刺される始末だ。何をしても上手くいけば総て自分の手柄、上手くいかないことについては無視を決め込む。子供っぽさにも程がある。

外交が駄目なら国内ではどうか。最近やたらと枕詞に「国家」が付く報道が多い。お友達を集めた専門家会議のメンバーは特に「国家」が好きみたいだ。冒頭に書いた「国家安全保障会議」もその1例。日本版NSCと力んだところで官庁の縦割り障壁で碌に機能しえないだろうとの声も多く、「国家」という言葉が好きなら好きでどうでもいいかと思っていたら、どうもそうでもないらしい。安全保障会議は既に中曽根内閣時代に内閣に設置されている。

当時から国家安全保障会議にしようとの声が声があったようだが、当時の官房長官後藤田正晴氏が設置法の内容を全て了解するも、タイトルに「国家」を持ってくることに断固反対して入れさせなかったそうだ。今となっては思いを聞くすべはないが、氏の思いが解るような気がする。

最後に後藤田氏のコメントを一つ紹介しておきたい。
「僕は憲法を評価しているよ。日本の社会は全体としては良くなっている。占領軍の押しつけという理由から中曽根君は改憲論者であったわけだが、僕自身は安易に自衛隊を海外に出すなとずっと主張していた」

2013年11月6日水曜日

母の命日

両親と一緒に過ごした時代から我が家に仏壇があったことは一度もない。父も五男で、仏壇は長男宅にあればいいとの考えだったので、こちらもそれを何となく踏襲している。

昨日先輩のお宅に伺い、四方山話の中で話題が両親の昔話に及び「ところでお母さんが亡くなってもう何年になるかね?」と質問された。困ったことに即答できなかった「七回忌は済ませましたので、確か7年以上前になると思います。」それ以上突っ込まれず、両親生前の話題に移ってもらえたが実に恥ずかしい思いである。友人の中には両親の月命日に墓参りを欠かさない孝行息子もいる。

その中の一人と我が家の墓が隣り合わせと来ていて、こちらが年に1度墓所に行くと、彼の家の墓はいつも綺麗で墓前の供花が瑞々しい。今週末も彼と会う機会があるのだが、きっと又墓のことが話題になることだろう。彼を見習うことは金輪際できないが、せめて両親の命日ぐらいはきちんと知っておかねばと思い、夕食後婆さんに聞いてみた。彼女は第1子長女で、実家は義母が一人仏壇を守っている。

彼女はよく岳父の命日と称して宿下がりをするので、そっちの情報は流石にきちんとファイルされていた。父の命日は平成8年11月25日(享年91歳)、母が17年11月1日(享年93歳)となっている。母が亡くなってもう丸8年も経ってしまったのかとの思いしきりだった。命日には少し遅れたが、昔から何をしてもきちんとしない出来悪の子だったので、思い出しただけでも益しと母も許してくれただろう。

昔から親不孝を重ねているが、せめてこれを書いて日付だけでも忘れないようにしたいものだ。

2013年11月5日火曜日

ネット社会の恐怖

パソコンで遊ぶのが仕事のようになっている昨今である。ブログにどんな意味があるかも分からずに、兄弟や従弟従妹達と茶飲み話でもするつもりで書き綴り、これをmixi即ちSNSにリンクさせている。以前はtwitterとfacebookにもリンクさせて読者を増やしたいと考えた時もあったが、これは止めてしまった。先ずリンク設定を増やしてみてもアクセスは殆ど変らなかったのが原因の一つ。

今にして思うと、仮に読者が増えたらなんだと言うのだろう?昔から出しゃばりで目立ちたい、出来れば人気者になりたい性格だったかもしれぬ。従って見たことも無い人が、駄文を認めて読んで頂けるのは有りがたいことかもしれぬ。しかし文筆を以て職業にするわけでもなく、思想信条に賛同者を得て革命の狼煙を上げる意図もない。

結局は知り合いとの茶飲み話の中心になりたいだけのことだ。それはそれでいいのだが、今日フィッシングメールを受信して、ネット社会は怖いなと改めて思ってしまった。幸か不幸かスマホなるディバイスを使いこなせないので持っていないが、最近はSNSへのアクセスはスマホ等の携帯端末からのアクセスが主流になっているようだ。携帯端末のセキュリティーについては知らないのだが、セキュリティーソフトはPC並みのものがあるのだろうか?

今日のフィッシングメールはPCに入れてあるセキュリティーソフト(ノートン)がブロックしてくれたが、これが無ければ完全に引っ掛かっていたと思う。孫が高校の入学祝いにスマホを買ってもらって使うようになっている。ラインなるものが盛んのようで、孫も大いに利用しているらしい。PCで言えばメーリングリストみたいものらしいが、仲間内では便利でも様々な社会問題が指摘されている。

ここに潜む危険は爺が口を出さないでも、本人や両親は分かっているだろう。こちらは口を出したくても、使ったことが無いので具体的な危険性について分からないし、危険要素は日に日に増殖している筈だから中途半端な口出しは無用にすべきだろう。むしろ、自分の頭の蝿のこと考えるべきで、諸々のSNSの登録を見直す時が来たように思う。今日は学生時代から後見人或いは保証人として世話になっている先輩のお宅にお邪魔した。

プリンターの調子がおかしいので診てほしいとのこと。とても個人的には役に立てないのだが、昔のスタッフとの縁は続いているので、不具合の調子を電話で話して用が足りた。秋晴れの中、駅からやや遠い杉並の住宅街を歩き回っていい運動になったし、大変ご馳走に与った。四方山の話も弾み、聞くと先輩はもうネットとは無関係になったとのこと。やはり人間同士の対面関係は素晴らしい。

2013年11月4日月曜日

楽天イーグルス 日本シリーズ優勝

普段野球中継などめったに観ない。スポーツ嫌いではないが、観戦が性に合わないだけである。特に野球は小さい時から下手くそだったので、就職して職場対抗の野球の試合でもユニフォームを着たことが無い。1年生はほゞ強制的にプレーを命ぜられてもアンパイア役でご勘弁頂いたくらい。しかし今年の日本シリーズには人並みの関心があった。

シーズン前に楽天優勝を予言した専門家が居ないそうだが、それが巨人を相手に戦うのだから興味が湧かない方がおかしいだろう。当然楽天に勝ってほしいと思いはじめた。婆さんもオーナーは好きでないようだが、野球チームの楽天を応援していて、何も知らない小生に解説してくれる。田中投手の24連勝でリーグ優勝する前後から食事時に恰好の話題を提供してもらった。

但し小生が観戦する時に限って楽天が負けるので、日本シリーズ中は食事時にテレビをつけないようにしていた。一昨日の第6戦も、普段無関心の私がたまたま口出しをしてチャンネルを切り替えさせた途端に2-0から3-2に逆転されてしまった。婆さんが怒ってチャンネルを元に戻すが時すでに遅しだった。昨日は日曜日、婆さんに言われなくても20時には自室に引っ込んで、録画した囲碁番組を観ることが習慣である。

2時間の番組を観終わってチャンネルをBS1に戻すと楽天の勝利投手インタビューが放映中だったので「やったね」と思った。婆さんはハラハラしながらと言っていたが、巨人をゼロ封している。大したものだ。日本中のスポーツファンが喜んでいるのも良い。判官贔屓の日本人にはアンチ巨人ファンは多いようだが、アンチ楽天は少ないだろう。連休に相応しい明るい話題だ。

チームの力とは不思議なものだ。ギャラの違いはあっても、選手やコーチ個人の技術や体力などの力量については、チーム毎にそう大差があるとは思えない。それがチームになると昨年優勝したチームが最下位にいなったりする。そこに面白味があるのだろうが、プロスポーツチームの監督のリーダーシップとは凄いものだ。星野監督のコメントも相手を立てながらも並々ならぬ闘志が伺える。これもリーダーシップの一因となっているのだろう。

監督も小生から見ればまだまだ若いが、身体は相当ボロボロになっているとのこと。勝負の世界はさぞ厳しいに違いない。
楽天チーム全員に心から「おめでとう、そしてお疲れ様でした。」

2013年11月3日日曜日

報道横並びで思うこと

我が国を代表する美術展かと思うが、本年度の日展開催に先立ち、書道の部で入選者が各流派に割り振られていたことが判明、世の顰蹙を買ってしまった。結果、全ての部門で文部大臣賞やらなんやら、賞を全部辞退することにしてしまったらしい。展覧会を見に行っても、タイトルの横に誇らしげに張り出される受賞の証しがついた作品は皆無となるらしい。美術を鑑賞するのに不要なものだから、すっきりして良いかもしれない。

しかし出展者には少し気の毒な気がしないでもない。趣味道楽で出展している人もいるだろうが、プロとして出展するとなると、受賞が作品の市場価値の向上に繋がるのは間違いないだろうし、それを目指して頑張っている人からすれば張り合いが無かろうに。発端が誰の告発で、動機が何であったかも知らないが、マスコミが取り上げさえしなければ(みのもんた氏の科白になってしまうが)、こんな騒ぎにはならなかったろう。

第一マスコミはこんなことはあり得ないことと本気で思っていたのだろうか?
全く部外者ながら、あって当たり前のことではないかと思いたい。たまたま日展が槍玉に上がっているが、今日発表の叙勲なんかはその最たるものではないか。元経団連会長が勲1等(現在この名称を使用していないことは知っているが、正確な名称を知らないので乞うご容赦)に叙されているが、これも御手洗氏個人の力量が国家に貢献した訳でもあるまい。

たまたま経団連なる流派に割り当てられ、そこのボスを長年勤めたことへのご褒美であるのは自他共に認めるところだろう。御手洗氏は御手洗氏で、書道流派家元が弟子の作品を取り立てる如く、自分の部下を取り立てて、自分より少し低い勲章が貰えるよう総務省などに働きかけているのはごく常識的な話で、別にマスコミに叩かれるいわれは無いようだ。

そもそも日本では事の善悪は別として隅から隅まで村社会、部落意識が横行している。これは何も原子力村に限った話でもなく、美術の世界にあったとしても不思議はないだろう。ヨーロッパにだってギルドとか同業者の組合があったのだから、美術にもロマン派とか印象派とか流派があってしかるべきボスが君臨して市場をコントロールしていたかもしれない(単なる冗談です)。マスコミが正義漢ぶるのは結構だが、どうせするなら、いっそ叙勲の階級を全廃させるとかまで徹底的にしてほしい。

レシピの偽装または誤表示にして同じこと。芝エビもバナメイエビも食感に違いないならどっちでも良いとは言わないが、一頃よく言われた米の産地とか品種の偽装問題なんかの方が、問題としては余程大きいと思う。

2013年11月2日土曜日

書くほどのことではないが

カレンダーの残りが大分少なくなってしまった。本屋に行くと、小手帳来年度版は既に大分前から売られている。年賀状の必要枚数を聞かれたのでそれも確認せねばならない。段々こういった事が煩わしくなってきた。小手帳に書き込むスケジュールも殆ど無いので、来年は小手帳を買うのも止そうかと思ってしまう。明日は孫の誕生日、おまけに今年は七五三なので、お祝いが二つ必要なんだそうだ。

「幾らにしますか?」聞かれても答えられる筈も無い。「総てお任せしますので、由なにお願いします。」段々世捨て人みたいになってきたと自分でも思う。先月は大学の同窓会があったのを忘れて欠席してしまった。友人が心配して手紙を寄越した。惚けが酷い証拠かもしれぬ。

せめて足腰だけはとて、毎日歩くことと土日に泳ぐことだけは未だ義務的にしているが、この連休は天気も悪そうなので山には行けそうにない。大体今月は懐が些かさびしい。年金が支給される偶数月の来ることだけが唯一楽しみとは困ったものだ。

2013年11月1日金曜日

読後感「血盟団事件」中島岳志著

戦前と言うべきか昭和初期に連続的に発生したテロ事件は515事件226事件が特筆大書されがちで、個人的には結果について若干知ってはいるものの、経緯や社会的背景についてはよく理解できていないのが正直なところである。しかも昭和15年生まれの小生からすると、事件については両親や近親者から詳しい説明を受けても良さそうだが、世界大戦における大敗戦を経てまるきり世の中が変わってしまったからだろう、戦前については彼等も口が重くなってしまった。

むしろ大分大人になってから、例えば226事件に直接関与させられた落語家の小さん師匠から当時の話を聞いたりする機会があった。この本に主人公の一人である小沼正(井上準之助民政党幹事長・前蔵相の暗殺犯人)には直接顔を合わせた事さえある。会話は全くなかったので今にして見れば惜しいことでもある。近代史を無視するように仕向けられた我々と違って著者は35歳も若い政治学者だけに流石と言わざるを得ない。

昭和初期におけるテロ事件続発の本質を見極めようとする真面目さが伺える書物と言える。少し内容に触れる。

昭和初期は経済的に不況が続いて、国家財政もおかしくなり、庶民の暮らしは苦しかったとされている。都市部では雇用不安に企業倒産が続き、農村も疲弊して娘を売らざるを得ない貧農があったこともよく知られている。一方で円安によって一部輸出産業に大儲けする企業があったのも少し現在似ているところがありそうだ。そんな環境下にあった昭和3年、茨城県の農村部大洗町に一人の坊さんが出現する。

名前は井上日召、後に血盟団の指導者となる人物で、本書の主人公である。略歴もかなり詳しく紹介されている。明治19年群馬県川場村の医師である比較的恵まれた家庭に生まれ、前橋中学から早稲田大学まで進むも中退。幼い頃から少し乱暴ではあったようだが、決して勉強が嫌いであったわけではない。むしろ若い頃から、社会とか己を哲学的に深く考える性質であったようだ。

時あたかも日本は近代国家として日清日露戦争を経て世界に羽ばたこうとしている時代。学問をする若者には現代と異なり、何をよすがに生きるべきかを真剣に考える傾向があったのだろう。彼もその一人で、国家の発展と貧富の格差が広がる現実社会の矛盾の原点を探ッたに違いない。宗教に救いを求めるのも当然で、キリスト教やら、禅宗を経て最終的に日蓮宗と法華経に救いを見出す。

大洗に来た頃には、既に医者も適わぬほど不思議な力を持つ僧として名高かったらしい。彼には常に国家改造の意識があり、試行錯誤の末辿り着くのが「暴力的改造」によって君側の奸を排除して、天皇と国民がダイレクトに結びついた国家の建設である。当時は貧しい家庭に育ち世を憂う若者が多かったのだろう。先の小沼正もそうだが、井上の理想実現に一命を投げ打つ覚悟の青年が徐々に集まってくる。更には東大京大や陸海軍にまで同調者が出現するに至ってしまう。

結局大洗に来て4年後には「血盟団」を組織して指導者となり、実際にテロを実行したり515事件や262事件のきっかけを作ったと言っても過言ではあるまい。血盟団テロの標的は10数人に及び一人一殺を計画するも、中途で井上をはじめ全員逮捕されて、10年から終身刑まで相当厳しい刑を宣告されるも何故か恩赦などで全員数年で釈放になってしまう。

更に、血盟団に関わった大多数が戦後右翼の大物に祀り上げられ、先生と呼ばれたのは理解するとしても、戦後の政治家がこのような人物を崇め奉ってきている事実があるが、本書ではその点について触れることをかなり遠慮しているように思える。

国家改造実現のためには、先ず諸悪の根源を排除しなければならないとの思い。戦後学生運動の赤軍派の心情も似ているのではと思うが、思いを共有するものが数人集まっても、必ず仲間割れが起き、当初の目標は脇にいやられて内ゲバが始まる。現代の反原発運動なんかでも同様らしい。いくら読んでもこの点だけが理解できぬ。面白味は全く無い本であることは断っておかねばなるまい。


2013年10月31日木曜日

東電今期黒字の予想

世の中に絶対のことは「死」以外には無い、だから軽々しく絶対なんて言ってはいけないと注意されたことがある。しかし就職を考える時、絶対潰れない会社があれば就職したいと考える人もいるだろう。少なくとも娘たちには、そのように考えた方が安全と教えてきた。今にして思えば馬鹿なことを言ったもので、役所が典型と思っていたが消滅しない組織なんぞありよう筈もない。役所だって銀行だって、社会への貢献が低下し存在価値が無くなれば消滅するのは当たり前だ。

思えば、都市銀行でさえ大学を卒業する時に確か12行あって、文系卒業者憧れの就職先だった。それが現在では3行か4行になってしまった。勿論逆の例も多々あるだろう。街の自転車屋さんと大差ないオートバイ屋さんが世界屈指の自動車メーカーのホンダなったり、電気屋さんがソニーになったりした。まさに栄枯盛衰は世の習いだから、将来のことをあれこれ考えるのは無意味かもしれぬ。話が逸れたが東京電力が今期黒字決算が出来そうとの報道があった。

冗談かと耳を疑った人も多いだろう。日本航空と同様に看板は兎も角、一旦これまでの東電は破綻処理をして再建すべきと考えるのが自然に思うが、どうもそうではないらしい。日本航空と東電の差をどこに求めればいいのか素人なりに考えたが答が想像できない。一瞬時の政権の違いを思ったが思想でもなさそうだ。しかし現政府が東電の存続を決意したことだけは間違いなさそうだ。破綻処理すれば金融機関や債券、株式を保有している人が損をし、存続させれば税金で全てのマイナスをカバーしていくので国民が等しく負担することになる。

日本人が好きな「絆」理論でこちらの方が公平で民主的とでもいうのだろうか。
「東電黒字」で頭に上った血を一旦抑え、少しは冷静になったつもりで、いろいろ考えてみた。この際一層複雑になるので原発再稼働の是非も考慮しないことにした。東電の福一だけに限っても、事故は未だ継続中であり、収束の見通しは全く立っていないのは誰にも否定できない。周辺の除染は無視するにしても、事故処理に要する年月と費用についても見通しが無いのは同様である。

極端かも知らぬが、費用は100兆円を超えるだろうと言う人さえいる。これまでの約2年半でも、国は東電に対し貸し付けの形を取っているにせよ既に数兆円を投入している筈だ。従って今のところ少し被害を被る形なっているのは、電気料値上げを受けた東電ユーザーと課税負担を強いられている全国民だけに留まっている。この負担は薄く広がっているので実感は沸きにくい。今後幾ら掛かるか分からない費用については、当事者能力が無い東電に背負いきれないのは更に明白で、東電を生かしても殺しても、結局は全てを国民が負担することになる。

総額については、既に投入した金額に比べようもないほどとてつもない費用になることしか分からない。だったら金融機関や債券株式を保有する人に損をさせないようにした方が、厭な思いや傷つく人が少なくて済むではないか。貸金や投資が全てブタになれば、傷が大きいだけに原因者に対する責任追及も厳しくなるだろう。凄く好意的に考えればこんな事だろう、極めて日本的であるかもしれない。

先の敗戦時の処理も少し似た感じがある。しかしいつまでもこんな事でいいのだろうか?考え始めると、幾ら冷静なろうと思っても難しい。

2013年10月30日水曜日

現代の若者は将来が不安で遊べない?

仕事をしていない年寄りが未来のことを心配しても致し方が無いし、労働環境が過去と異なっていることを思うと、一読には値しないかもしれぬ。
現代日本は凄まじい勢いで高齢者が増え、若者が減りつつある。残念ではあるが、この傾向は誰にとっても手の打ちようがないのが事実だろう。せめて数が少ない若者たちには元気に育って、一定期間(現代的には40数年か)は一所懸命働いて頂きたいと望むばかりだ。年寄りの身勝手ではあるが、ついそう願いたくなってしまう。

ところで、最近の若者は余り遊ばないらしい。若い時から将来に不安を感じて、将来に備えて若い時から貯金する傾向の若者が多いとのこと。気持ちは分からぬでもない。娘二人のうち一人がその口で、就職して初任給15万円にも満たないうちから貯蓄に励み、貯金通帳の数字が増えるのが最大の楽しみと言っていた。もう一人は正反対で、妹の数割増しに匹敵する高給を取りながらキリギリス的な生活をしていた。

双方共に確信犯だから、どちらに対しても文句を言ったことはない。多分母親も同様だったろう。内心では妹の方が少し偉いなと思いつつも、姉の方が俺に似ていると思っていた。男性の場合の老後感は少し異なるのだろうが、どっちにしても若い時に遊ばないのは良くない。仕事を通じてできる人間関係を馬鹿にするものではないが、どちらかと言えば遊びを通して形成された人間関係の方が長持ちするように思う。但し、役に立つとか損得で言えば別かもしれない。

娘どもは二人とも酒は相当飲むし、友人にも恵まれているようなので安心している。問題は未だ幼い孫の世代のことだ。幸か不幸か3人の孫がいるが全員男と来たものである。未だ最年長がやっと高校生になったばかりなので、遊ぶことに精力を費やして、将来のことなんか何も考えていないだろう。これも当たり前で、大学生以前に将来のことを考えるようでは空恐ろしい。しかし既に小遣の使い方なんかには性格の違いが見られると聞いた。それも結構だ。

自分のことを思えば、将来については大学4年生の頃からずっと不安を感じていた。現在だって不安が全くないと言えば嘘になる。何を縁に今日まで来たかを言うと結婚早々の頃、とあるCM制作の時監督に教わった名言「明日は食えないかもしれぬが、食えなくても人間中々死にはしない。何よりも明日の100円より今日の10円でいきましょう。」この監督さんもかなりユーモアがあって良い人だった。

健康で、選好みをしなければ、普通の人が全く仕事が無いなんてことは考えられない。マスコミに惑わされて将来に不安を抱くより、今日成すべき仕事に全力を尽くし、一杯飲んでぐっすり眠れば明日もまた陽は上ってくる。これを脳天気な考えと称するのだろうが、毎日思っていれば40数年なんて短いものだ。問題は65歳で年金が貰えないなんてことになると大変だ。これには政治が一丁噛んでくるので、若い時から政治に関心を持つことを薦めたい。

2013年10月29日火曜日

皇后陛下の談話

今週は秋晴れが続く筈だったと思うが、予報士を恨んでも仕方がない。夕べから予報が変わり、朝になると雨の可能性大と余計見通しが悪くなり、実際昼前から降り出した雨は老体にこたえる冷たい雨になってしまった。昼間は誰に気兼ねする事のないワンマンオフィスなので、エアコンを暖房に切り換えて暖まっている。これで本格的な冬になったらどうするのだろう?我ながら些か恥ずかしく思わぬでもない。

足の老化を防ぐ意味で日課にしている万歩運動も本日は取り止めて、終日ネット碁で怠惰な1日になってしまった。ブログを書くほどのニュースも見当たらない。新聞やテレビは来る日も来る日も同じようなことを騒ぎ続けているが、編集長とかプロデューサーよく我慢できるものだ。ネットの情報には余程ましなものがある。先日来数人のネットジャーナリストが似たような事を書いているが、今月20日の皇后陛下79歳の誕生日に記者クラブに寄せられたとして発表されたコメントについてである。

質問は以下の3問ある。

問1 東日本大震災は発生から2年半が過ぎましたが、なお課題は山積です。一方で、皇族が出席されたIOC総会で2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まるなど明るい出来事がありました。皇后さまにとってのこの一年、印象に残った出来事やご感想をお聞かせ下さい。

問2 今年、皇后さまはご体調が優れず、いくつかのご公務などをお取りやめになりました。天皇陛下も今年80歳を迎えられます。両陛下の現在のご体調や健康管理、ご公務や宮中祭祀に関してご負担軽減が必要との意見について、どのようにお考えでしょうか。

問3 皇太子妃雅子さまは十一年ぶりに公式に外国をご訪問になりました。また、悠仁さまの小学校入学をはじめ、お孫さまたちに節目となる出来事が相次ぎました。ご家族と様々なご交流があると思いますが、皇室の一員として若い世代に期待されていることをお聞かせください。

当日小生を含む多くの国民は「皇后陛下はもう79歳になられたか。公務が沢山あってきついと聞くが、さぞ大変だろうな。」程度でニュースを聞き流したのではないだろうか。しかし改めて回答文を読むと、皇后陛下の頭の出来がそん所そこらの凡百と訳が違うことに改めてびっくりする。婆さんに言わせると「ミッションスクールをお出になりながら、皇太子妃の要請を受け、たった一人で2か月近い世界旅行をしながら熟慮の末、神道総本家の嫁になる決心をしているのだから覚悟が違う。」

兎に角下々の事をよくご存じで、天皇皇后は弱者に対して気遣いはしても、政治に関しては口を出さない姿勢を貫いていることは小生も普段から存じ上げてはいる。しかし20日発表された談話で皇后陛下は、5月にあきる野市を訪れた時に見た「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。と述べられている。これを異例または一種の事件と捉えたジャーナリストは多い。
代表的なもの1件引用しておく。以下は[高野孟のTHE JOURNAL:Vol.104]からの引用

 安倍内閣が、憲法9条の改定による自衛隊の国防軍化、集団的自衛権
 の解禁による対外戦争権限の樹立、国家安全保障会議(NSC)設立とワ
 ンセットになった特定秘密保護法の制定など、まさに「国権主義的」な
 方向への国家改造をめざして疾走しようとしている時に、敢えて自由民
 権運動から現憲法の制定へと繋がる民権思想の流れに言及して、しかも
 それを世界的な文化遺産に相応しいとまで讃えるというのは、尋常なこ
 とではない。これを皇后が独断で書いたはずはなく、よくよく天皇とも
 相談して、ある覚悟をもって発表したと推測され、ということは、現政
 権への両陛下の強烈な不快感の表明と受け止めるのが妥当である。

2013年10月28日月曜日

馬鹿でも貧乏でも結構、ほっといてくれ

友人のブログで面白いデータの紹介があった。アメリカのある漫画家集団サイトからの引用で「各国が何で世界をリードするか」とある。
http://thedoghousediaries.com/large/5414.png 
根拠データはこちら
http://thedoghousediaries.com/maplesyrup
英語なので分かり難いが、日本はロボットで世界をリードするとなっている。因みにアメリカは「ノーベル賞受賞者数と芝刈り機による事故死」ロシアは「ラズベリーと核弾頭」インドが「映画」なんだそうだ。

データを見ると日本は工場労働者に対するロボット件数が現時点でも世界でダントツ1位になっているらしい。工場の自動化率が世界で最も進んでいるようだ。別に工場に限らず、現在日本で自動化されているもの様相を、子供の頃を比較して思い出すとまるで夢のようである。小学生の頃アラビアンナイトの絵本を見ながら、シンドバッドが「開けゴマ」の呪文を唱えると扉が開くなんて魔法以外には想像できなかった。今や呪文さえも要らず、扉の前に立っていれば扉は自動的に開くもののようだ。

外国人が日本でタクシーから降りる際、扉に手を掛けようとして道路に転がり落ちたといった笑話はもう聞かないし、外国の現状はよく知らない。でもアメリカ人が日本の特徴として特筆大書してくれるほどだから、日本は自動化先進国なんだろう。生産工程の自動化が日本の産業に大いに貢献して経済成長を支えてきた、或いは支えているに違いあるまい。しかしこれで喜んだばかりいていいものだろうか?ややへそ曲がりではあるが、そろそろこの考え方は見直す時期に来ているのではと思っている。

そんなに古くない昔のことだが、日本の時計産業について読んだ記事で印象に残っていることがある。日本はセイコー、シチズン、カシオあたりが筆頭かどうか知らぬが、数社のメーカーで世界の時計市場の圧倒的なシェアーを有する時計輸出大国らしい。一方昔から時計と言えばスイスとされているようにスイスには日本の桁違いの百社単位の時計メーカーがあるそうだ。それぞれ細々と食いつないでいるだろうと思いきやである。生産数量では日本に遥かに及ばない時計の輸出を金額で見ると、記憶が曖昧だが倍以上引き離していたように思う。

大量生産による規格品は単価が安くなるのは理の当然。世界で産業部門別に見れば圧倒的なシェアーを占める日本製品はさぞ多いことだろう。しかし何でも安くて大量生産することだけが脳でも無い筈だ。現政権における経済政策や労働政策から教育政策まで含め、馬鹿の一つ覚えの如くこの方向に突き進んでいるように思えてならない。そもそも国家が、国民の教育程度を均一的に引き上げるなんてことを考えること自体間違っている。昔から思っていることだが、東大の1次試験と慶応義塾の1次試験が同じなんてことは信じられない。

共通1次試験が導入される前に、慶応に滑り込めたから言うのではない。東大に行く人は東大への、北大に行きたい人には北大へのそれぞれ異なる思いもあり、迎える側も異なる思いがあれば、最初から試験内容に差があるべきだ。個性を尊重してくれなんて別に言いたくもないが、人間の規格が国家に決められたのではたまらない。農家にしても同じこと、全部の農家が輸入米に拮抗しうる低価格米を作りたいか。馬鹿みたい話ではないか。

「貧乏でも馬鹿でも結構だからほっといてくれ。」と思う人は多いだろう。

2013年10月27日日曜日

朋遠方より来る

昨日はプールの休館日、代わりに何をするか考える必要が全くなかった。夏の南アルプスで2回(聖岳・鳳凰岳)お世話になった、熊本の元自衛隊員のMさんが我が事務所を訪ねてくれたのだ。彼は7月の26日に熊本の自宅を自家用車で出発、主に百名山を歩きつつ本州を縦断して東北地方まで足を伸ばしたが、2千メートルを超える山には降雪が始まり一人での山歩きが危険になったので、やっと帰宅する気になったとのこと。

東京にはお嬢さんがいたり、友人が多いので数日東京に立ち寄ることにしたそうである。池袋で待ち合わせをして昼食の後、我が事務所にご来駕いただいた次第。お嬢さんとの待ち合わせ時刻が夕方6時過ぎとのことだったので、お茶一つお出しできない事務所で、ヤマレコのデータや地図を見ながら、たっぷり半日あれこれと山談義にふけった。山小屋でベテランの経験談を聞くのは山歩きの大きな楽しみの一つだ。その特別バージョンの日だったと言える。

今回は特に共通の想い出を持ってもいるので、話が余計身に迫る。彼は7月の末から昨日に至る3か月で、百名山として登録された本州の山を31座(山の数え方でこう言います)踏破されたとのこと。昨年までに九州や四国中国地方中心に40座以上を踏破しているので、残すところ20数座。余りのスピードで勿体ないような気もするが、元々登山時間そのものの極小化を目指すような歩き方で、そのための訓練をしているのだから仕方あるまい。

だからでもあろう、山歩きについては実にまめに記録をメモしている。今回じっくり拝見して小生の記録にぶつけてみると、平均的にこちらが4時間強かかる行程を3時間切って登られているので、時間的には約6割、スピードで言えば1.5倍くらいになりそうだ。今年のハイライトは北アルプスの上高地から槍沢経由槍ヶ岳山荘で1泊、キレットと呼ばれる有名な難所を経由して北穂高岳山荘で昼飯、奥穂高山荘で2泊目、翌日前穂高岳を経由して日が高いうちに上高地に帰還した縦走だったとのこと。

こちらも全ルートを知っている訳ではないが、山々は一応知っているし、そのルートの素晴らしさ十分理解できる。危険個所は行く気が無いので飽く迄頭の体操だが、自分がもし計画すれば上高地を出発して槍沢ロッジで1泊、槍ヶ岳山荘で2泊目、北穂高山荘で3泊目、奥穂高山荘で4泊目、上高地への帰還は5日目の夕方になるだろう。とか、ガイドをお願いした聖岳は10時間も掛かっててしまったこと、しかも休憩を都合9回も取っているらしい。勿論時間からおしっこの回数まで記録を披瀝して頂いた。

こちらは歩くに死にもの狂いで殆ど休憩らしい休憩の記憶さえないのに、てなことで大笑いをしたり、秩父方面でも新しい情報を貰ったり、兎に角時の経つのを忘れる思いの楽しい半日であった。

2013年10月25日金曜日

国会論戦

先週から昨日にかけて、久し振りに国会論戦がテレビ中継された。先週の総理の所信表明に対する与野党の代表質問は毎度のことだが、論戦と言えるものではないので殆ど見ていない。今週の予算委員会中継は一応1問1答形式なので、野党の質問中心に数人分のテレビ中継を見た。攻守が異なる前政権時代に比べると、質問者側が随分謙虚でおとなしい、が第1感である。厭らしいかどうかは兎も角、言葉尻の突込みはオリンピック招致委員会における総理の発言「完全にコントロール」くらいかもしれない。

全体的に建設的な質問や要望が多かったように思うが、受ける政府側は野党の意見なんか歯牙にもかけていないのだろう。聞かれたことについてまともに答えず、聞かれていないことについて延々と喋るスタイルについては本当に何とかならぬものか。野党側も福一の汚染水がらみの揚げ足取りはもう止めた方が良い。政治家にはカエルの面に何とかだし、現地で作業している当事者の感情を傷つけるだけだ。それにしても、福一の作業員数が、半年前に比べると3割以上減っている事実が指摘されたことには驚いた。

正確な数字は忘れたが、4千人以上働いていたのが2千5百人以下になっていたと記憶する。東電も請け負っている業者も作業員確保には懸命になっているのであろうが、作業員はもとより有限である。被曝条件が一定以上なると外さざるを得ないとなると、人材の供給源が縮小することは誰にでも分かる。汚染水タンクの置き場が無くなるのと同じくらい根本的問題のように思うが。政府が前面に出るとか、汚染水管理の要員を倍にしたとかの報道は一体なんだろうか?

口から出まかせを言おうが、嘘をつこうが政治家は許されるなんてことがあって良いはずはないが、政府の答弁を聞いていると、無学の小生には意味がよく理解できない分だけ嘘っぽく思えてきてしまう。民主党の質問者は頭の良い議員を選んだ感があり、やや学者、いや先生風で馬鹿な生徒を指導するような感じだ。内容もマクロ経済政策とかなので馬鹿の一員としてコメントは控えたい。
面白かったのは参議院の共産党小池亮氏、実は先の選挙で比例に彼の名を書いて投票した期待に応えてくれた。

小池氏の質問は流石に共産党だけあって生活実態に即した具体面から入っている。今回は労働政策が中心であった。先ず総理に対する冒頭の質問「本当に景気が上向いていると思っているか?」総理は例のごとく直裁に答えないで、耳にタコができるくらい聞いているお話「成長率が昨年昨年4-6はマイナスX%7-9がなんとかで・・・今年の4-6には3.8%に上がってきているではありませんか。設備投資も上がってきたし消費も増えている。そういう中に於いて景気の腰折れさせないよう政策を実行しているのです。」

更にデータに基づいて突っ込むと、これまた決まり文句「過去デフレ下にあって賃金が物価以上に下がってきていた訳です。デフレを跳ね返して賃金を上げていくためには強い経済が必要で、そのためにはタイムラグがあります。今必要なのは何と言ってもデフレから脱却のマインドチェンジであります。」読者も耳にタコのことだろう。これは前座のやり取りで、小池氏の質問は政権が取ろうとしている労働政策(規制緩和の名の下で非正規雇用拡大を意図する)を厳しく批判するものだった。

こんな労働政策で強い経済が生まれるなん想像もつかぬが、先ほど受信したTPP反対議員のメルマガにこれがTPPと大いに関係があり、アメリカの強い要望に所以する。このことも興味深いが機会を改めたい。

2013年10月24日木曜日

日本人の平均寿命

日本人の平均寿命が長いのは結構なことだ。しかし人生長く生きることだけが最終目標だろうか?

今朝のネットマガジン(日経ビジネスon line)の記事タイトル「老いのレッスン」が目についた。<欧米には、なぜ寝たきり老人がいないのか>と副題がついている。興味を覚えて読んでみると、スウェーデンでの取材記事になっている。かの国にも認知症老人は当然いる。老人介護施設もあるそうだが、寝たきり老人と胃ろうの患者は1人もいないとのことだ。母が93歳で亡くなったが、末期には食事が難儀になって、我々子供中ではこの胃ろうがテーマになっていたことを思いだす。幸か不幸か結局それ以前に亡くなったが。

続いてかの国の老人介護の施設に胃ろう患者が居なかった理由が記されている。
やや長くなるが引用させてもらう。

>その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。(読売新聞の医療サイト・yomiDr.宮本顕二氏の記事)<

この他に寝たきり老人が少ない理由として、生活様式の布団とベッドの違いとか日本の社会インフラが高齢者への配慮に不足があるとかいくつか指摘されている。中で改めて気づかされたことが、日本人の年寄りに対する気持ちの問題があるそうだ。年寄りを大事する、年寄りも若い人に遠慮するという道徳的な日本のあり方は貴重な価値観かもしれない。この価値観に基づく精神的プレッシャーが、年寄りは安静にして寝ていてくれるのが一番との傾向に結びついている。

これがそもそも寝たきり老人を増やす大きな一因となっているばかりでなく、介護する側にも大きな精神的負担を強いていると指摘している。価値観の相違だけではないかもしれぬが、欧米では脳卒中や骨折で入院する年寄りの入院日数が日本に比べると格段に短いようである。以下も引用であるがこう書いてある。

>欧米では治療が終われば患者はすぐリハビリセンターへ送られる。高齢者の平均入院日数はデンマークの場合32日、それに対して日本では高齢入院者の48%が6カ月以上も入院する。その結果、長い入院日数がかえって筋力の衰えや頭のボケを助長しているかもしれないのです。何とも皮肉な結果ではありませんか。<

日本人よりほんの数年平均寿命が短いとされている欧米では、老人が寝たきりになる前に亡くなっているようだ。そう遠くない時期にその年代に入る身としては、家族を含めよくよく考えたい問題である。たまたま昨日91歳になる叔母から便りを貰ったり、89歳の義母のことが話題になった。お二人とも一人暮らしで元気に暮らしている。一見親不孝に見えるかもしれないが、互いの為にベストな環境かもしれない。

2013年10月23日水曜日

続・出陣学徒慰霊碑(記憶と記録)

くどくなって恐縮だが、昨日の続きを書きたい。

70年前の日本人と現代の日本人にどれほどの差があるだろうか。少なくとも基本的な感情に大差のあろう筈はないし、教養の程度が現在の方が優っているとは断定しにくい。日本に限らずとも古今東西殺人を好んでする人間は少ないだろう。しかし先日、人間とは同種で殺し合いをする珍しい動物であることを聞いたと書いたが、残念ながら人類の歴史に戦争が絶えないのも事実である。日本がここ70年近く戦争することなく来ていることが珍しいこととされている程ではないか。

当然ながらこの事実は大事に守り続けてもらいたい。非戦で来ることが出来た背景には外的要因が幸いしたこともあり、その要因が年々変化していることは認めねばならぬだろう。しかし、ここ1年や2年で急に外的要因が変化したなんてことはあり得ない。にも拘らず現政府は安全保障環境の変化をしきりに言いたがる。それを言うならむしろ1989年~1991年旧ソ連邦の崩壊時に世界に何が起きつつあるか、これから何が起きるかを真剣に検討すべきであったと思う。

因みに1989年11月のベルリンの壁崩壊のニュースを受け、アメリカでは政府は勿論、多くの政治家がソ連方面に出掛け、今後地政学的にどんな影響が出るか熱心に研究したらしい。ある人が言うには、日本の政治家で当時そのような感覚を持って動いていた人間は皆無だったそうだ。冷戦構造の崩壊といった大変なパラダイムシフトの時に安閑としている程度の政治感覚しか持ち合わせないのが日本の政治家実態だろう。皮肉に見れば、故に平和を維持できているとも言える。

特に現内閣は国内に問題が山積されているにも拘らず、見当はずれな国防について異常なまでに熱心に取り組もうとしている。国防について疎かにしていいとまでは言いたくないが、国防を考え得るならもう少し歴史を勉強してもらいたい。70年、80年前の日本人の国防意識は少なくとも現在の比ではなかろう。極端なことを言えば、当時は国防が常に政治の1丁目1番地にあり、政界には申し訳ないが現在の政府関係者以上に優秀な方が犇めいていたと思う。

にも拘らず、実際に何が起こったか。ここが問題で、その事をよくよく調べて研究してもらいたい。昨日書いた学徒動員に関することもその一つである。調べようにも記録が無くて調べられない筈である。分かることはただ一つ、戦争では兵士は消耗品であり、徴用する側からすれば学生であろうと丁稚小僧であろうと一緒で、員数を合わすことだけに過ぎぬことだ。出陣学徒の記録が無くて5万人とから10万人とされる所以である。

今後に於いても戦争ではごく当たり前だ。自分たちの子供がその員数1員なることを想像してもらいたい。もっと基本的なことは戦争は大国が惹起するものであることだ。日本も大国を意識して韓半島に乗り出した。結果は少し年輩であれば誰でも知っているが、非常に惨めな敗戦となった。従ってその後約半世紀ほどの間、日本人は戦争に対して非常にネガティブな思いを共有していたと思う。しかし、実態から遠ざかると想像は難しい。小生でも負け戦の惨めさを身に沁みているとはとても思えない。

最近になってやっと、一世代前日本のどこに問題の本質があったかを知りたいと思いはじめたくらいのものだ。経済大国・強い軍事力・強い国同士の同盟、現代日本は父母の世代に様相が非常に似ているところもありそうだ。敗戦の惨めさを知らない世代が、今後どういう結果をもたらすか分からないが、後世のため少なくとも肝心なことはきちんと記録を残してもらいたい。東条内閣が学徒出陣にあたって詳細の記録を残さなかったような真似だけはしてほしくない。

情報メディアが発達している割に現在でも我が国は情報管理が杜撰で、重要な事案が記録として残されないらしい。歴史に学ぶことも大切だが、歴史を刻む責任も重い。政治家諸氏には肝に銘じてほしい。

2013年10月22日火曜日

出陣学徒慰霊碑

昨10月21日東京は雨こそ降らなかったが1日中うすら寒い日であった。夕方のテレビニュースを見て、70年前のこの日がかの有名な明治神宮外苑で行われた学徒出陣式であることを知った。現在の国立競技場がその跡地であり、そこに数年前に、この式に参加して生き残った数名(確か15名だったように思う)有志が資金を出し合って石碑を建立したとのこと。現在の国立競技場は2020年のオリンピックの為に建て替えが決まったので、近々撤去されるとの報道だった。

新しい競技場完成の暁にこれが復活するかどうかは未定とのことだった。これを受けてインタビューに対応されていた生き残りの方は既に90歳、当然ながら日本の平和が続くことを願っているので、学徒出陣があったことを末永く記憶にとどめるためにも是非永久的にこの地に碑を置いてほしいと述べていた。毎年10月21日にはこの碑の建立に関わった有志がここに集まり、記念式典みたいことをされていたようであるが、今年集まった人は僅か3人、今年が最後になるだろうとのことだった。

「これから起こる社会現象は必ず過去起きたことと同じで、たまたまそれを君が知らないだけだ。」アメリカの大統領であったかヨーロッパの指導者であったか忘れたが言ったそうだ。個人にせよ国家にせよ過去のことなんかさっさと忘れた方が良いことも多いだろうし、全てを記憶にとどめるなんて不可能だろう。一方、忘れていけないことも沢山ある筈だ。個人的には、学徒出陣式なんてことがその何れに属するかは分からない。

びっくりしたのは帰宅して読んだ夕刊の関連記事である。昭和18年10月のこの出陣式に参加した学徒の数は2万5千人と言われている。しかし、先の大戦で戦没した学徒の総数は5万人とも10万人ともされ、正確な数は把握されていないらしい。ネットで出陣式に参加して現存されている方の意見を見ると、学生総代の答辞に「生還を期さず・・・」とあったことに対して違和感を抱いたと感想を述べている人も多い。

戦争が若い人の生命を消耗するのが定めとは言え、学業半ばの若者に「人殺しをして、お前も死んでこい。」と決断する国家も凄いし「分かりました。」と同意した最高学府の学徒が数万人いたことに驚かない人がいるだろうか。中東の自爆テロニュースを見て、「なんて野蛮な奴らだ、さぞ教養が不足しているだろう」と多くの国民は思っているだろう。我々世代からすれば両親の時代、現役世代からすれば祖父母の世代は、現代の中東以上に国民が挙げて狂った社会だったのか。

*そんなことはあり得ない。続く
 もう少し書きたいが、長文になったので明日に譲りたい。

2013年10月21日月曜日

お二人の訃報に思う

今朝の朝刊1面中央にかなり大きなスペースでコラムニスト天野祐吉さんの死亡記事があった。享年80歳とのことだから年齢的には不足はないのだろうが、つい1週間足らず前に氏のコラムを読んだ記憶があるのでびっくりした。広告会社の出身であるからだろうか、世の中を非常に幅広く俯瞰的に見られていたように思う。テレビでも時々拝見したが、大勢に阿らずいつも辛口のコメントをされていたように思う。

先輩がだんだんと亡くなるのは自然の摂理としなければならないのだろうが、先の大戦を直接体験された方が少なくなっていくことに非常な寂しさを禁じ得ない。先週は漫画家のやなせたかしさんも亡くなられた。氏のデビューの頃は既に漫画を卒業する年代になっていたので、有名なアンパンマンについては一度も読んだこと観たことが無い。亡くなられて初めて、氏の多彩な功績を知った次第。歌の「手のひらを太陽に」は何度聞いてよく知っていたが、氏の作詞とは全く知らなかった。

やなせさんは享年90歳でとのこと。幼い頃も苦労されたようだが、先の大戦で直接兵士として参戦され、九死に一生を得ての帰還だったようだ。復員後昭和22年には三越に入社して、現代も使用されている赤い包装紙のディザインをされたとある。小生も大学時代に日本橋三越本店でアルバイトしたことがあり、当時包装紙を「赤紙」と称していたことを懐かしく思い出した。昭和も30年代半ばになると、召集令状かの「赤紙」はすっかり変わってしまっていた。

話が逸れたが、やなせさんの主義は作品に十分生かされている「思いやりと平和主義」とのこと。大勢の子供たちが愛読していることは実に喜ばしい。現在社会で活躍している40歳50歳台の大人達が子供の頃愛読していたかどうかは分からない。小生も、やなせさんが大切にされてきた「思いやりと平和主義」は、日本人の殆どの人が戦後一貫して共有してきたと信じている。否、信じてきたと言うべきかもしれない。

小生がサラリーマン生活を辞めたのは10年一寸前のことである。小泉内閣時代の真っただ中の時代である。正直なところこの頃、時代の変わり目のような違和感を感じたことはなかったかもしれない。しかし今にして思うと、この頃から日本社会が大きく変わり始めたようだ。当時は未だ政治への関心が低かったせいもあるだろうし、既にサラリーマンを辞めることになっていたので、個人的な将来不安で他人事を考える余裕もなかったのだろう。郵政が民営化されれば日本の全てが良くなると言われていたが、自分がそのおこぼれに与れるとは到底思えなかったのは確かだ。

まして、当時盛んに言われた規制緩和も同様である。個人的な関心が無かったのでそのまま聞き流していたが、この時代の政策が今頃になって効果を発揮し始めているらしい。それが所謂格差社会の出現ではなかろうか。同時にがらりと変わったのが日本人の価値観「思いやりと平和主義」はすっかり忘れ去られ「功利主義(己にとって良いか悪いか)と強きを誇る主義」がはびこり始めている。辛い戦争を克服して愛すべき国の建設に努力された故人逝去の報に接し、故人の心中を思わずにはいられない。

2013年10月19日土曜日

山歩きの楽しみ

山小屋で同宿になった人から聞く山談義は楽しいものだ。山歩きをする人の目的や楽しみ方は千差万別、正に人それぞれである。小生の場合は一に心身の健康法、二には高い場所からの眺望を楽しむことかもしれない。月に一度この快感を味わうことで、平素暮らしている狭い家での閉塞感を一気に開放することができる。このところ二回続けて美術館に足を運んで思ったのだが、家で絵を楽しむ代わりに山歩きをしている意味がありそうだ。

行ったことのない山に行くのは、新しい絵画を壁に飾る気持ちに通ずるかも知れないし、同じ山に何度も行くのは好きな絵を何度も飾ってみたくなるのと一緒だろう。自分のことはこれくらいにして、一般的に多いのは挑戦的目的をもって山歩きをしている人だろう。その第一が踏破する山の数、百名山踏破が最たるものであろう。今や百名山は普通名詞で知らない人の方が少ないかもしれない。念のため書くと、作家で登山家の深田久弥氏が「日本百名山」を書き、昭和39年に読売文学賞を受賞されている。

1903年生まれだから勿論故人で、調べてみると昭和46年茅ヶ岳(八ヶ岳近くらしいが小生は知らない山)登山中に山頂直下で脳卒中に見舞われ亡くなっている。享年68歳とある。少なくとも現在市販されている登山ガイドや登山地図の大部分に百名山の表示がある筈だ。小生が使っている地図には他に二百名山三百名山なんて表示もあるが、これの選者は誰であるか分からない。何れにせよ、他人が目標を設定してくれているので挑戦しやすいのだろう。友人にも百名山踏破組が何人かいる。

その友人の友人には三百名山踏破した人がいるそうだし、山小屋で聞いていると三百名山踏破はそんなに珍しくなさそうである。こういった人の目的は山頂を踏むことにあるので、小生がしょっちゅうするように途中で引き返すと、改めて挑戦しなければならない。こうなると山歩きも容易ではなさそうだが、そこにはまた大きな楽しみもあることだろう。別の挑戦にあるのが、自己への挑戦型。

かの有名な三浦雄一郎氏が典型であろうが、75歳で2回目のエベレスト山頂を極めたら、次は80歳で3度目の挑戦をして、ヘリで下山しても成功したと喜んでいる。これもよくあるタイプで、岩登りなんぞする人は皆このタイプだろう。最近流行っていて、山で練習している人を見かけるトレイルランと言う競技がある。マラソンを山岳地帯で行うようなもので、時によっては数百キロの山坂を走ってスピードを競わなくてはならない。こうなってくると凡人には理解不能だ。

先の深田氏もあまり長生きしたとは言えないし、登山やハイキングが却って健康を害することになりかねないと思ってしまうが、皆それなりに楽しんでいるのだろうから、余計な心配は無用だろう。これは極端だが、山歩きのスピードを気にする人は多い。小生も登山地図やガイドブックを見ながら行程の予想時間を決めて、なるべくその範囲で登ろうと心掛けてきた。しかし、今日思ったのは、これから歩行時間を気にするのは止めようである。

70歳を過ぎて何かに挑戦するのは烏滸がましいし、精神衛生に良くないので、山の楽しみが半減してしまうだろう。

2013年10月18日金曜日

報道に求めたい真の勇気

週の初め、月曜日には間違いなく真夏と同じ服装でいたのに急に寒くなった。東京では最低気温が未だ15度あるが、志賀高原では初冠雪があったらしい。慌てて下着や靴下も含め冬物に切り換え所謂衣替えをした。未だ台風が来る可能性はあるらしいが、もうそんなに暑くなることはあるまい。街路樹も葉の色がうっすらと変わり始め、1枚2枚と葉が風に舞い始めている。秋は夕暮れと言われるが、心なしか街の風景もなぜかうら淋しくなりつつある。

季節は巡るものだし、冬来たりなば春遠からじだから余り感傷的になるのは如何なものかと思うが、全く仕事をせずに国から給付される年金だけを頼りの春と夏が過ぎた。この状態があと何年続くか知らないが、どうしても忸怩たる感は否めない。そんなに仕事がしたければ就職活動をするなり、ボランティア活動にでも参加すればいいのだろうが、そこまでの積極性も持ち合わせない。やはり本質的には怠け者なんだろう。

やや仕方なしにこのブログ書きを大事な時間潰しに活用しているところだが、社会に参加していないせいもあって段々書くことが無くなってきた。時間があるのだから新聞テレビ等を丁寧に見ればいいのだが、最近はそれも面倒くさくなってきている。テレビのニュースは1日に1回夕方の7時からの30分、新聞は精々10分か15分斜めに見るに過ぎない。

それにしても新聞テレビの報道はその性格上仕方ないのかもしれぬが、16歳の少女が21歳の交際相手に殺されたとか九州の整形外科で火災が発生して10人近くが亡くなったと言えば、数日間は朝に夕にその事ばかり報じていた。ところが台風26号が伊豆大島中心に大きな被害をもたらすと、そんな事件もすっかり忘れ去られてしまう。こう言っては悪いかもしれぬが、自分の生活と直接関係ないそんな刹那的報道にいちいち付き合っていられない。

一方政治報道は直接生活への影響が考えられるが、政治の構造がご承知のような状態で中国や北朝鮮と大差ない独裁国家の政治となり下がっている。こんな時にこそ報道陣が勇気をもって立ち上がり、国民に替わって政府の間違っていることを糺してほしいが、これまた全く期待できない状態にある。世論調査なんてことも定期的にやっているが、アリバイ造りにしか見えない。例えばどう考えても原発事故処理と東電救済が両立しないと思う市民が圧倒的だと思うが、小泉純一郎発言を面白半分に取り上げるだけで、世論を背景に本気で政府を追及するなんて気持ちは全く見えない。

野党のだらしなさにも原因はあるが、報道も抵抗しないのだから結局つけは国民に回されることになる。TPPなんぞもかなりいかがわしいと思うが、問題の所在を知ろうとしない報道機関にとっては秘密保護法が成立しようがしまいが関係ないのだろう。常に政権与党のご用聞きみたいことをしている大企業の経営者が構成する経団連なる組織がある。ひょっとするとマスメディアの経営トップも構成員かもしれない。経団連は前政権時代には自民党への献金を減らして民主党へすり寄っていたと記憶する。

彼らの辞書に「変節」なんて単語があるのかどうか、その一員かどうか知らぬが薄っぺらなご都合主義の報道ばかりで真面目に見る気が起きないのだ。

2013年10月17日木曜日

書画を趣味とする人を尊敬する

昨日未明の嵐が去って今日の午前中はまた秋晴れが戻ってきた。しかし変わりやすいは秋の空で、また台風が発生したらしい。日本への接近は来週になりそうだが、25日に奥多摩に出かける予定もあるので、ぶつからないことを祈るしかない。今回の26号台風も伊豆大島に大きな災害をもたらした。一見しようにも見えず、掴みどころのないものであるが、空気の流れほど怖いものは無い。我が国は四季の変化に富み、温暖で暮らしやすい国とされているし、実感もそうである。

しかし一方で地震・雷・津波に竜巻や台風・大雨と自然災害にも事欠かない。そんな自然環境が日本人の特徴ある価値観、即ち人工的富を余り重視せず、むしろ自然との折り合いを貴ぶ感性を形成しているのではなかろうか。生者必滅思想で、10歳になるかならない頃に聞かされた「形あるものは壊れる」は今でも刷り込まれていて、お宝を溜め込む趣味を持たなくなった。それが長ずるに及び子供時代のお宝はお金に変わり、江戸っ子でもないのに宵越しは兎も角、老後の資金がないことに今更嘆いても始まらない。

朝から気持ちのいい秋晴れの下、健康法も兼ねて上野の東京都美術館に出かけた。友人から「日本表現派展」の招待状を頂いたからである。先日の「一陽展」と比較すると小振りの展覧会ではあるが、同種の展覧会が同時に開催されているので上野のお山は大変な賑わいである。中には先生に手を引かれている幼稚園園児や修学旅行らしき生徒は見えるが、圧倒的に多いのがやはりご同輩である。友人知人にも絵描きを趣味としている人は多い。

今日の展覧会にしても先日の一陽展にしても、招待状の発信者は皆アマチュア?、少なくても絵を売って飯の種にしようとはお考えになっていない筈。個人のインプレッションを形にすることが芸術と言うのだろうが、確かに高尚な趣味である。我が父も無趣味だった記憶していたが、幼い頃に何回か展覧会に連れて行ってもらったことを思い出した。関連して段々と思うと、我が両親の時代までは、こういったことは趣味というより教養の一環で、身に付けるべきものだったのかもしれない。

我が小中学生時代と言えば、どっちを見ても金持ちらしき人間は見当たらず、日本人の大部分が衣食住に不自由していた筈。それでも母は謡のお稽古などしていたし、父は絵描きさんを尊敬していて、弟を習いに行かせていた。こちらが高校から大学に進む頃だから、終戦から14、5年くらい経った頃だろう、父が1枚の絵を買ってきたことがある。勿論知り合いの趣味人に頼まれたからだろうが、今にして思うと偉いものだ。父は県庁の役人をしていたので、それほど貧乏ではなかったと思うが、少なくとも高校の修学旅行を取りやめて積み立て金を返却してもらって、大学受験資金に充てたくらいには貧乏だった。

その絵の行方は余りにも罰当たりなので書けないが、趣味を持つこと=教養を身に付けることは日本人がとても大切にしてきた感性だと思う。最近やっとその事に気が付いた。昔の殿様や侍は書画を本格的に習ったものらしい。絵も描けず、歌は勿論全く駄目、山小屋で宿帳に書く住所氏名さえ小学生にも劣る金釘流、全く情けない限りだ。

2013年10月16日水曜日

テレビの下らなさ

段々浮世離れが激しくなってきた。山に行ったりしたせいもあるが、留守中の新聞を読む気も起きないしテレビも殆ど見ない。たまに見ようと思ってもいつも台風のことばかりである。人気のない海岸に立っているアナウサーは大変かもしれないが、何故こんな事を延々言い続けているのかが理解に苦しむところだ。山登りの疲れはとても1日では回復しなくなっているので、さっさと寝るにしくは無い。

今朝の朝飯の時、テレビのつまらなさを話し合っていた。国会も始まったようではあるけど、昨日は総理大臣の所信表明があったそうだ。我が家の解説者が「役人の書いた原稿をなんら手入れもせず棒読みしているので、悪評サクサクよ。」と教えてくれた。「そりゃそうだろう、どんなに悪評であろうとこれから3年間程度はやりたい放題だろうから、真面目にやる気が起きないのだろう。こちらも見る気も起きないし好きにやらせるしかないさ。」些か投げやりな答えしかできない。

たまたまその時テレビから「国民的何とかドラマ」というコメントが流れた。「国民的ドラマてなんだ?」と聞くと婆さんもよく聞いていなかったようだが、「相棒」なるドラマの宣伝だった。我が家は朝から晩までテレビをつけ放しているが、不思議とドラマなるものは見たことが無い。婆さんもドラマはっ見ないが、何というドラマが流行っているかとか、主演タレントについては流石によくご存じだ。テレビドラマからは国民的俳優や女優が誕生して、流行語もドラマから生まれてくるご時世らしいが、この方面も一切無縁である。

国民的水準からずれているのはご愛嬌だが、日本国総理大臣の権威も認めず、年中馬鹿にしているのは内々でと言ってもマジである。秘密警察でも誕生すれば牢屋に放り込まれかねない。せめて総理大臣の胸中を察しておこう。「そういう意味に於いてはですね、この爺さん、ある種の非国民ではありませんか。そうではありませんか、皆さん!!」

2013年10月15日火曜日

又、山に行ってしまった


冬場を除いて月一度は山歩きをすることを、我が身に許される唯一老後の贅沢としている。今年はスキーに行くチャンスが無かったので2月から山歩きを始め、先月までに既に8回以上出掛けている。しかも泊りがけの回数も多い。詳しく記録していないので分からないが、残り少ないへそくりの減り具合からすれば、既に昨年1年より費用を掛けているに違いない。今月も月末には友人と奥多摩の川苔山に行く約束をしているので、昼飯なんか極力安く上げる努力をしてきた。

しかし関東への接近が予想された台風24号が太平洋上にはずれたお陰で、連休に入ると恨めしいような快晴になった。土曜日は池袋を散歩しただけで我慢したが、日・月と快晴が続くと聞いてはどうして家に閉じこもる我慢が出来なくなってしまった。山に行きたしお金は惜しいと悩ましい心境で行く先を求めて散々と思案、結局清水の舞台から飛び降りる心境で八ヶ岳の編笠山方面に行く決心をする。土曜日の午後、山小屋に電話をしてみると、多少混んではいるが一人あたり布団一組は確保できそうとのことなので、早速予約。

夕方暗くなってからJR小淵沢までの切符を買いに行く。当然座席指定の特急券はある筈も無い。新宿発7:00のスーパーあずさ1号への自由席乗車を7500円ほどで求めて帰宅。いつも婆さんに行動食の補充を頼むのだが、今回はそれも省略して有り合せのみかんとドライフルーツにチーズ少々と一口羊羹に飴玉4個。天気が良さそうなので着替えもできるだけ少なくしてザックも軽くした。

日曜の朝早起きして新宿に発車30分前に到着すると、自由席待ちは既に長蛇の列、小生同様思い付き旅行者は沢山いるものだ。でも幸い最後に残っていた1席を確保、しめしめと内心ほくそ笑んだものの、小淵沢から登山口まではタクシーを利用するしかないのだが、これまた長蛇の列。予約している人優先で、往復30分以上は優に掛かるらしい。しかし今回は実についていて、その折衝をしている時後ろにいた母子連れ(勿論予約をしていました)の人が同乗しましょうと誘ってくれた。受付のおばさんも「内緒ですから」とは言ったものの反対は出来ぬなぁ。

暫くするとタクシーが1台来て同乗させてもらい、登山口には予定の10分遅れ程で無事到着。歩き始めると本当の秋晴れ、登山道もよく整備されて申し分のない山歩き、山頂からの見晴らしも申し分のない眺望で大満足。予約した小屋には予定より大分早く着いたが、陽だまりに大きな炬燵を入れた談話室風の予備部屋があり、ビールなんぞ飲んでいると、だんだん増えてくる登山者の山談義を聞いているだけで楽しい。全国各地からいろんな人が来ているが、茨城県から来ていた内装屋の社長さん、未だ60歳前とお見受けしたが、話が特に面白かった。

何でも1年に最低3か月は山歩きされているようで、いろんな人の話に出てくる山で知らざる山とコースは無いみたい。ヒマラヤは3度行って6000メートル峰(確かママの首飾りと言ったかな)の登頂にも成功しているそうだ。この時にはヒマラヤ遠征だけで、天気待ちやら何やらと2ヵ月も掛かったそうだ。この人に劣らず凄かったのが白髪の老人、奥さんはかなり若く見受けられる。こちらも日本の山では殆ど行ってないところが無いくらい、この編笠山は5回目とのこと。

興味深かったのは小屋の飯の良し悪し、殆どの人が朝日小屋をトップに上げていた。但し広島から来た60歳絡みのおっさん一人だけ異を唱えていたが。2番手がヒュッテ大槍で、こちらは小生も知っている。それだけに余計朝日小屋に宿泊してみたくなったが、こちらから見ると白馬の更に奥で、どのルートを聞いてもアクセスが容易ではなさそうだ。従って残念だが小生にはもう行く機会が無さそうだ。兎に角この小屋は面白い、先ず小屋主が有名な登山家で、先月NHKの「日本百名山」に出演している。今回ここに来た最大の原因はこの番組を観たことにある。

小屋の名称は「八ヶ岳青年小屋」とされているが、入り口に提灯が掛かっていて「遠い飲み屋」と書いてある。ボトルキープまであるくらいで、茨城から来た小父さんは小屋主と11時まで飲んだそうだし、広島から来たおっさんは食事が終わる頃には冷酒四合+焼酎のお湯割り一合は飲み干していた。夜中九時過ぎても暗くならないのも珍しい。他にも面白い話はあるが省略。

翌日の権現岳も快晴の下快適な登山。下山途中で赤の他人様から行動食を恵んで頂いたり、道を教えて頂いたりして随分助けられた。そのため、帰りにタクシーの心配はしないで済んだが、車が行き交う舗装道路を約一時間近く歩く羽目になり、すっかりくたびれた意味もある。これも他人から教わったのだが小淵沢からの帰路、座席の確保を心配しないで済ますのは普通列車に限るとのこと。

これも非常に有意義なことだ。余り早く帰っても婆さんは喜んでくれないだろう。小淵沢で自由席特急券を200円手数料を払って払い戻し、12:35発の始発普通列車でのんびりと帰宅した。それでもまだ4:30、標高差1700メートル近くを歩いて下ったので、今年初めての疲れだった。今日も筋肉痛が残っている。食事を済ましても未だ7時前、それでも寝てしまったので昨夜は11時間寝たことになる。

山の詳細はこちらもご参照願います。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-357751.html

2013年10月12日土曜日

池袋の秋祭り

我が地元の池袋は何故か知らぬが「ふくろ祭り」と称する秋祭りが2回ある。1回目は既に終わっているのだが9月28日・29日の二日間。氏神様は御岳神社で氏子は西池袋一帯に拡がっている。29日の夕方は大きな神輿が10数基が、池袋駅西口前広場に特設された桟敷に区長以下のお歴々が陣取る前に勢揃いして気勢を上げた。氏神様に感謝するのか願うのか、あるいはそんなこと関係なしに酔っぱらって騒ぐのが楽しい連中もいることだろう。

しかし少なくとも桟敷に陣取るお歴々や、神輿の廻りで先陣を切ったり辺りを警戒するかのように周りを取り囲む年寄り連中は、揃って白足袋に浴衣姿で、全国どこでも見受けられる秋祭りの光景である。普通に考えれば今年は雨に降られず良かったな、で締めくくればいいものを、2週間後に第2部(これも土日の2日間)があるのが特徴である。そのために駅前の桟敷席は解体されていない。

今日から明日への2日間は趣ががらりと変わり、よさこい踊りコンテストが中心になっている。よさこい踊りとは発祥が当然高知県土佐のものと思うが、どんな経緯あったか知らぬがもうかれこれ20年以上前に北海道の札幌で、これをパクッタ大イベントが行われ、以降全国的なブームになっている。我が池袋にも、札幌で仕掛けた人と同じようなイベントプロデューサーがいらしたのだろう。札幌に遅れること8年目の2000年から「東京よさこい」と称してふくろ祭りに合わせて行っている。

今日もプール帰りの通り道なので、お昼に少し見物してきた。プールでいつも会話するご同輩曰く「俺ももう少し若ければあの踊りの輪に加わりたい。年を取ってからの趣味はやはり参加型でないといけません。」とのことだ。単に「そうですか。」と聞き流した。小学生の頃盆踊りの輪に入った記憶はあるが、協調性の薄い性格なんだろう、どうも大勢の人と練習したりすることの意義がイマイチよく分からない。むしろ山にでも行って気ままに歩くのが性に合っているようだ。

でも実際に見てみると、先ほどの会話に合点がいった。大勢に参加者の中には立って歩くのも容易ではないのでは、と心配したくなるような方も確かに見受けられる。そしてそんな方も一旦踊り始めると何かに憑かれたかのように嬉々として踊りまくっている。参加者の性別や年齢は実に様々、あるチームの踊りが始まる前の口上を聞いていたら「我がチームは15歳から40歳代のメンバーで構成されています。」と高らかに宣言していたが、どう見ても50歳台60歳代の男女が数名はいた。

老若男女揃いの派手やかな衣装を羽織り、顔に濃い化粧をして大声を上げながら活発に踊り狂う様は皆恐ろしいほど綺麗だ。一寸観のつもりが1時間近くも見入ってしまった。パクリにせよ何にせよ、見ている人間も心が浮き立つのだから結構なことだ。今年の参加チーム全国から110チーム以上とあり、チーム編成も数十人単位から100人を超すところまであるらしい。若い人も普段は悩みが多い筈だが、踊り狂っていれば他のことは何も考えないのだろう。皆顔が輝いていた。

2013年10月10日木曜日

国立公文書館の歴史資料

今日は江戸城北の丸公園の散歩がてら、国立公文書館で公開されている「旗本御家人お仕事いろいろⅢ」展示を見てきた。一昨年から毎年行われている催しで、今回はが3回目らしい。国立公文書化に入館すること自体が初めての経験だったが非常に興味深いものがあった。行く前と帰ってからもホームページをチェックしてみたが、これも実に良くできている。
http://www.archives.go.jp/

国立国会図書館のアーカイブデータは図書館に足を運ばないと閲覧できないが、こちらはホームページから直接アクセス可能なので嬉しい限りだ。これからはちょくちょく覗いてみたい。現場に行っても入場料は無料で、催し展示に対応するイヤホンの貸し出しも無料。上野の博物館の催し物は大概有料だったと記憶するが、予算付けがどのように違っているのか聞いてみたいものだ。

午後になって雲行きが少し変わって、空模様が怪しくなってきたものの昼過ぎまでは良いお天気だった。ウィークデイとあって人出も少なく、公園も公文書館も相も変らぬご同輩ばかりだ。強いて言うと他の場所に比べると婆さんより爺さんが少し多かったようにも感じた。いつも思うのだが、沢山の見聞がある訳ではないが、外国の公園はもう少し若い人が楽しんでいるような気がする。

北の丸公園や江戸城内の公園は、ニューヨークのセントラルパークに比べても遜色ないように思う。若い人の姿が少ないのは場所的にアクセスが悪いのか、何らかの規制が強すぎるのか知らないが少し勿体ないような気がしないでもない。展示内容は上記ホームページに詳しく掲載されているので、時間があれば是非ご覧頂きたい。徳川幕府には2万2千人から2万3千人ほどの旗本と御家人が居て、これが言わば有資格者でこのうちで選ばれた人間が公職についたものらしい。

当然猟官運動等現代に通ずるところもあったろうが、残されたこれらの資料から見る限りは、当時の役人はかなりの教養を積み人格的にも相当公私のけじめがつかないと採用されなかったのではと想像することが出来る。書き写してきたかったが、中でも将軍の身の回りの世話をする小姓と小納戸と言う役職の者が百人ほど居て、その採用に当たっての面接時の質問が残されている。武道の心得から始まって約10問一寸だったが、手先が器用かとか、歌は詠めるかとか、碁将棋の心得とかである。

誰に対しても同じ質問であるとすれば、下らなくも思えるかもしれぬが、人間何事も基本がしっかりしていないと始まらない。現代の試験みたいに重箱の隅を突っつくような問題が果たして良いのかどうかだ。何れにしてもこの小姓・小納戸が当時のエリートでプライドも高かったと紹介されている。何れにせよアーカイブ用のメディアは和紙以外に無い時代のことだ。当然不意の事故による損傷は免れ得ない。それを慮って資料の複製保存にも相当な配慮がなされている。

比較するに現在の公文書の扱いや如何、先日も機密扱いの外交文書が既に3万数千件も廃棄処分されていると報じられている。嗚呼

2013年10月9日水曜日

芸術の秋

部屋の中に居てもエアコンで冷房を入れてしまうような蒸し暑さ、世の中狂ってしまったような事件や事故が相次いでいるが、お天気までが常軌を逸してしまっているようだ。外気や世の雑音は出来る限り無視を決め込み、ゆっくりした息遣いを心掛けて、台風の余波を受けて千切れ跳ぶ雲の奥に拡がる澄み切った秋の青空を見上げながら散歩をした。散歩と言っても何時もの池袋往復コースとは異なり、嘗て勤務していた赤坂や表参道界隈である。

友人から乃木坂にある国立新美術館で開催中の展覧会の招待状を貰ったので、早速行ってきた。絵の良し悪しは分からないが、好き嫌いは勿論ある。先ずなんといっても美しい色でなければ好きになれない。好みの色がある訳でもないが、ところどころによくまあこんなきれいな色が描けるものだと感心する作品が見受けられる。大きくて迫力のある作品が多いが、抽象的でおどろおどろした作品には少し閉口してしまう。

個人的にも怖い夢を見た経験が無いとはしないが、態々そんな印象を描く必要ないだろうにと思うのが素人なんだろうな。森とか波とかの風景は好きなので、1点々々ゆっくり鑑賞したが、今年は山脈を描いた作品と、展覧会に付ものの裸婦像が少なかったように思った。きっともう素材として飽きられてしまったのかもしれぬ。千葉県の棚田を描いた作品が印象に残ったが、山の絵が少なかったせいかもしれぬ。

何れにせよ10月は体育の月でもあるが、芸術の秋でもある。来週は上野の東京都美術館への招待券を頂いているので、上野公園を散歩できるだろう。もう一つ今月是非行きたいと思っているのが皇居北の丸の国立公文書館、ここで展示中の「旗本御家人III お仕事いろいろ」地下鉄のつり広告で気が付いたのだが、面白そうだ。最近侍に非常に興味がある。江戸時代は特権階級で威張り散らしていたかと思ったりしたこともあるが、どうもそうではないらしい。

現代で言えば公務員だろうが、人口の約5%で、社会秩序を保つためにかなり頑張っていた人も多かったようだ。特権階級だから、司法の訴追を受けて牢屋に入るなんてことはない代わりに、不祥事を起こせば直ぐに切腹させられたりしたらしい。今は生半可な知識で本当かどうか分からないが、考えてみると侍の閉門蟄居は聞いたことがあるが、牢屋に入れられたのは吉田松陰ぐらいしか思い浮かばない。

侍がどんな仕事をして、扶持を頂く仕掛けになっていたか知っているようで知らない。近いうちに皇居周辺を散策しながら勉強したいと思っている。

2013年10月8日火曜日

福一5号、6号機の廃炉

最近の報道を見ていると、東電関連の動きがどこかおかしい。新潟の柏崎刈羽原発の再稼働申に対するが新潟県知事の一見強硬な反対姿勢が、一夜にしてひっくり返ったり、モグラ叩きのように汚染水漏れが続く副一を総理が突然視察したりしている。そしてその場で総理が5号、6号機の廃炉を宣言し、東電があっさりそれを認めた。新聞テレビの報道はそこまでで、素人目には結構なことだ映ったことだろう。

ところが、その背後には、経済産業省が10月1日にこっそり施行した省令改正(経済産業省資源エネルギー庁所管の「電気事業会計規則等の一部改正」)があったというのだ。この省令改正の悪質性は、それが経産省の官僚の一存で決められる省令改正(国会審議なし)であるということだ。その改正の目的は極めて悪質で、会計士や税理士の間では、「粉飾決算になる」、「会計原則の根幹を歪める」と大騒ぎになっているという。

具体的には資産価値がゼロの廃炉設備の減価償却費を損益計算書に記載する事を可能にすることによって、減価償却費のための電気料金値上げを末永く国民に押し付けることが可能になるというのだ。会計原則に則れば、除却すると決めた資産はその期において残存資産価格をすべて償却しなければならない。当然ことながらその期に於いて莫大な損失が計上されて、東電の破綻が明確になる。この省令改正はそのリスクを回避して、すなわち国民の金を使って東電を残すことに繋がっている。

少し難しいことを長々と引用して書いたが、今日の「日刊ゲンダイ」が報じたらしい。当然のことながら、ネット上では囂囂たる非難が巻き起こっているのが、マスメディアがこの報道をどのように追随するかが見ものである。ネット上のには次のように書かれている。「こんなことが官僚の一存で国会の審議なく10月1日に決められていたのである。これはもはやれっきとした国家の経済犯罪ではないのか。」

やっと国会でも福一事故に関する休会中審査が開かれ、福一サイトを東電から切り離すことが俎上に乗り始めている。東電に当事者能力が無いことは誰の目にも明らかなので、当然のことながら近い将来そのような措置がなされることだろう。この省令改正などを見ていると、その場合でも東電の破綻処理はしないつもりらしい。その結果、税金を使うならこんなに巨額(おそらく現時点では見積もることも不可能なほどだろう)を投入します、或いは電気料金に上乗せして東京電力使用者に今後何十年負担してもらいます。と何故素直に謝らないのか。姑息に誤魔化すことはないだろう。

別に好んで会社を潰さなくてもいいが、そのことによって融資していた金融機関や電力債を持っている大企業が救われ、国民ばかりがつけを背負わざる得ない。政治家は与野党共にそこらへんは百も承知で慣れ合っているような気がしてきた。一昨日のテレビで民主党の馬渕議員が野田総理が原発事故の収束宣言をした経緯を調査中と述べたが、これも真相が表に出ることは期待薄だ。

2013年10月7日月曜日

チョットしたことだが

最近若者の服装のみだれととマナーの悪さに閉口してしまうのは年のせいだろうか。近所に高校(こういっては何だがあまり程度は高くないらしい)が3校もあるので、朝に夕にすれ違うのだが、これで学校の先生方もよく黙認しているものだ。東京は道幅広いので、群れを成して歩くさまには普通の人は道をよけてしまう。時々竹刀でも持って行って思い切り殴りつけたい衝動に駆られる時がある。しかし考えてみると、彼らは特に悪気はないのかもしれぬ。

先日は地下鉄に乗った時に小生の後ろで待っていた小学生の二人連れが、下車客が降りるや否や小生を追い越して空席に奪取して席を確保した。彼らの目の前に立って見ると、チラッとこちらを見たが二人で顔を見合わせ安心したような様子で話し始めた。もっと老け顔だったら席を譲ってくれるつもりだったかどうか分からない。余程どこの学生で先生の名前を聞こうかと思ったが、これも余計なことかと思い直しやめておいた。

要するに思うのは、最近の家庭では10歳未満の子供時代に行儀の基本を躾けられていない若者が非常に増えているのだろう。教育がしきりに重要視され、塾の宣伝やランドセルの宣伝が年中テレビ流されている。子供の教育や躾は塾や学校で出来る筈も無い。殆どの家庭では母親の最重要課題だと思うが、現代の母親と言えばもう娘より一回り以上後になる。娘の時代でも相当理解不能なことが多いのに、さらにその下になってはお手上げせざるを得ないのか。読み書き算盤に外国語の心配は全て学校に任せて、行儀だけは家庭できちんと教えてほしいものだ。

日本らしさとかクールジャパンとかお・も・て・な・し・なる言葉の流行は結構だが、本質がどこにあるのか。こればかりは家庭における幼児教育の問題で、政府どんなに施策を打ち出しても社会では責任の負いようがあるまい。折り目正しい日本語ときちんとした挨拶、全ての基本はここにあるだろう。先日読んだ雑誌に書いてあったことだが、社内公用語を英語にすると人間関係がぎくしゃくしてしまうそうだ。何故なら英語には丁寧語とか尊敬語が無いので、部下が上司に対して命令口調になったりするらしい。

反対意見なんか述べる時も「あんたは間違っています。」てな発言になるらしい。聞いている上司はこのクソ餓鬼めみたいな感情になることあるらしい。まぁ、どちらも日本人故で慣れてくれば問題なくなるのかもしれないが、あっても不思議は無さそうだ。親に対して「お早うございます」と言えば親は「お早う」と答える。双方が「Good morning」で済ますのとどちらが善いとか悪いの問題ではない。単に文化の違いに過ぎぬだろう。

世界遺産に登録されなくても大事にしてもらいたいことの一つだが、お上の手を借りる訳にはいかぬだろうし、悩ましく思ったりしてる。

2013年10月5日土曜日

歴史を無視する罰当たり

先日来日したアメリカのケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて献花してくれた。アメリカの政府高官もやっと敵国であった我が国の兵士に敬意を表してくれたことに、感慨深いものがある。特に場所が靖国神社でなかったのが余計に良い。一部には安倍総理が5月に訪米した際、靖国神社を米国のアーリントン国立墓地になぞらえたことに対するけん制とみられ、安倍首相の歴史認識に対する批判とも言われている。兎に角アメリカは交渉でも何でも、相手国を徹底的に研究しているらしい。

アメリカ政府はお金が無くて大変なようで、高官が二人して属国日本に「もっとカネを出せ。」或いは「もう少し召し上げるぞ。」と宣言しに来たように思えるが、勿論そんなことを言う人はいない。政府筋は2+2協議と称するらしいが、このために先方から日本に足を運んで開催できたのは画期的なこと自慢している。しかし帰り際に先に述べた戦没者墓苑参拝で、出来の悪い子供に何かを教えたいと思ったのだろう。

アメリカにしてみれば、自民党の1党独裁が長かったせいもあるが、日本は政府や官僚も結構優秀で、しかも性格も素直で比較的御しやすいと思っていたに違いない。一時は自民党以外の政党が主導権を握ったことも何度かあるが、基本的な対米関係は何も変わらず平穏だったはずだ。それで図に乗ったように、チンピラのお兄さんがバシリの手下を扱うように、日本に対して言いたい放題、やりたい放題の難癖を付けてお金を巻き上げてきたのがここ数十年の歴史だろう。

安倍政権も基本的にはその延長線上にあるのは間違いないのだが、手下のくせに兄貴に忠義立てのつもりで、時々とんでもないことを言いだすので、少し困っているのではないだろうか。アメリカの若者にとっては不幸なことだが、アメリカの若年人口は増え続けていて、兵隊さんの供給源に不自由はないみたいである。問題は彼らに支払う給料、即ちお金さえあれば世界中で戦争をし続けるつもりだろう。

集団的自衛権の解釈変更なんてことで、弱い兵隊なんか送り込まれた日には却って足手纏いで有難迷惑だろう。余計なことを考えずに従来通り、こちらの命令に従ってくれが本音だろうに。腹の中ではそう考えているに違いない。第一属国の政権が替わるたびに、宗主国が何十年も続いたこれまでの関係を説明するのでは疲れるだろう。当たり前のことではあるが、向こうは政権政党が何度も交代しても、基本的外交関係が崩れることはない。そのために例え秘密であっても外交文書の保管しっかり保たれている。

比較して我が国を振り返ると、外交の基本がわかっていないのか、秘密扱いの外交文書が何万点も廃棄処分されているとのこと。彼国で秘密扱いが終わって公開されて文書の日本側文書が見つからないのは日常茶飯事だ。民主党時代の政策を全てひっくり返すのは国民の為を思ってか知らぬが、外交関係、しかも自分の身内先祖が関わったことまで、歴史の意味も勉強せず手を付けるとは、罰が当たらなきゃ善いが。