2011年4月28日木曜日

明るい話題もあるさ

暗く辛い話が多いので、今週のニュースから敢えて明るい気分になれるものを探してみた。

1.「祈り 両陛下と東日本大震災」
南三陸町小学校校庭にヘリで降り立った両陛下は、佐藤仁町長から「商店街や住宅がみんななくなりました」と説明を受けた後、がれきが散乱する沿岸部に向かって黙礼された。体育館での被災者お見舞いの後、自衛隊幹部らにも会い、「ありがとうございます」と述べられた。

会われた人々は口を揃えて「お言葉を掛けて頂き、ありがたく思いました」とか「勇気を頂きました」と言っている。テレビを見ているこちらも本当に良かったなと思う。石原軍団や杉良太郎等タレントの慰問、大勢の無名の方々のボランティア活動、ニュースにはならなくても探せば救われた思いになる話題は沢山あるだろう。総理大臣が同じように被災地を訪問しても、全く反応が異なるのは残念ではあるが。

2.「日本国民と共に行動を」帰化決意のキーンさん
日本文学研究の第一人者ドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(88)は「災難を前に、『日本国民と共に何かをしたい』と思った。自分が日本人と同じように感じていることを行動で示したかった」と決意へ至る思いを強調。「日本は震災後、さらに立派な国になると信じる。明るい気持ちで日本へ移る」と語った。9月までに東京・北区の住まいに移るという。

多くの外国人が日本を脱出している中で、決意されたのは敬服するばかりだ。名前だけは知っているが、研究対象が高尚過ぎて一度も著作に接した事はない。既に文化勲章を授与されているが、もっと栄誉を讃えても罰は当たるまい。

3.「湾岸戦争の恩返し」クウェート、復興支援に原油
20年後の謝意表明――。中東の産油国クウェートは27日、東日本大震災からの復興支援で原油500万バレル(約450億円相当)の無償提供を表明した。湾岸戦争時の恩返しとしてオタイビ駐日大使が27日、石油相の親書を海江田万里経済産業相に手渡した。

「情けは他人のためならず」とはよく言ったものだ。湾岸戦争直後のクウェート政府が発表した感謝の広告に、資金拠出だけだった日本への言及が無かったと随分話題になったものだ。「恩を仇で」と言う言葉もあるが、受けた恩はそう簡単に忘れるものではない。他人には親切を旨とすべきだろう。

2011年4月27日水曜日

連休中の行楽プラン

もうすぐゴールデンウィークが始まる。今年は今週末の3連休と来週半ばの3連休プラス来週末の土日と3分割されている。尤も来週の月曜と金曜をを休めば10連休になるので、海外に出掛ける人には好都合だろう。こちらはそんな予定も無いので、断続的に休みが続く方が何となくうれしい。そろそろ計画を立てなければと思い、過去の日記やアルバムを見た。昨年は志賀高原で春スキー、その前の年は上田の従弟宅で世話になり太郎山、その前は秩父の雲取山、更にその前年は長野従妹と鬼無里・奥裾花と翌日は飯縄山、その前は一人で鎌倉を散歩している。

日記を書きだしたのが2005年10月からなので、その前のゴールデンウィークについての記録はない。アルバムを確認してみると2005年5月4日に一人で秩父・三峰神社奥の院を参拝している。結局我が山歩きは、この前年2004年の秋から始まった事に改めて思い至った。早いものでもう丸6年が過ぎてしまった事になる。連休の行楽をこのように思い返してみると、悪い癖でいつも相手の迷惑を顧みず親戚宅をお騒がせしているのが多い、しかしどれも懐かしい。今年は早々と先週土曜日に、長野の兄弟従妹総出で花見に招んでもらった。

今年は5月3日に若い青年2人と、御嶽から大岳山経由で奥多摩駅に降るコースを歩く予定を立てている。青年1人は先日生籐山に一緒した我が整体の先生。もう一人はこの先生の元同僚で、我が家の斜め前に住んでいる看護師さん。勤務先の近くに農園があるとの事で、しょっちゅう野菜を届けてもらっている。少し前まで知らなかったのだが、彼が整体の先生とは親しいものの山歩きは初めてとの事。「爺さんが行くなら俺もつれてって」と言う事になったらしい。

こちらも一人歩きは止そうと思っていただけに渡りに船でもある。下の写真でお分かりの通り、2004年10月御嶽神社に参拝したのが山登りのきっかけでもある。前の青年もその気になってくれると、連れが出来るので有難いし嬉しい事だ。

2011年4月26日火曜日

健康法考察 運動のしすぎも

昨日サラリーマン時代からの友人と久し振りに会食した。彼は小生より一世代若いが、官僚であったので既に第2の人生に入っている。共通の知人が今年早々に亡くなった事があり、その追悼を兼ねての会でもあった。故人を中心にした昔話から発展して、互いにこれからの人生を如何に生きるかが中心的な話題になった。彼は私に比べれば大分若いが、既に社会的な地位とか名誉、経済的な執着からは離れている。「英語で言えばQuality of Lifeに尽きますよ。その為には健康が何と言っても大切。」だそうだ。

勿論私も全く同感で、いろいろ参考になる話しを聞いた。彼は髪も黒々して年寄りじみたところが無い。最近はランニングを習慣化し、勤務後に皇居2週マラソンを走ったりしてトレーニングをして、時にはフルマラソンも走ったりしているとの事だ。勿論通勤時も結構な距離を歩いてもいるらしい。そんな事だから、酒の量も昔に比べると随分少量だったような気がするし、魚を中心とした食事で時間も比較的早めに切りあがった。

ランニングは昨今流行りの健康法だから、70歳を越している同輩にも、月に100キロ以上走る事を生活習慣としている人が何人かいる。それだけ体力を維持している人達を予てから羨ましく思っていたのだが、彼が言うには「本当のところは60歳を過ぎたらランニングはお勧めできいない。」理由は「心臓が丈夫になるのは結構だが、身体の諸機関の中で心臓だけ強化すると他の臓器とのバランスが悪くなってしまうので…途中は失念したが…具合が悪い事が起きる。」何でも一生走り続けないといけないらしい。

彼は心拍が50だか60以上に上がらないらしい。小生も心拍を土日プールから上がった時にいつもチェックするが、70以下になった記憶が無い。詳しい事はもう忘れてしまったが、過ぎたるは何とやらで、年寄りに冷や水も程々にしないと却って体の害になりそうだと聞いてほっとした。小生も健康のためと思って必要も無いのに毎日一生懸命に歩いたり、週に1,2回はプールに行ったり、整体に行ったりしている。ところがその手の事を一切しない婆さんの方が遥かに健康で、体も柔らかい。悔しくも不思議でならない。

昨日の彼もフルマラソンの後は気をつけないと却って風邪をひきやすいとの事。運動のしすぎで抵抗力が低下する事もあるらしい。小生は運動のし過ぎでもないのにすぐに風邪をひく。婆さんに笑われながらしている独自の健康法の見直しが必要かもしれないが、何事もボチボチするに限ると改めて思ったところだ。

2011年4月25日月曜日

松代の花見


一昨日の土曜日、故郷長野の松代町に花見に行ってきた。朝出かける前から東京は雨ふりで、千川駅前で偶然出会ったマイミクの友人が「え、この天気で花見?」と怪訝そうな顔をしていた。彼はレインコートを着て日課のマラソントレーニングの最中。こっちが「この雨の中、よくやるねぇ!」と声を掛けたいくらいだ。ところが長野新幹線に乗ってトンネルを超え、軽井沢に着くと曇ってはいるが雨が上がっている。天気予報通りである。

松代は戦後の一時期2年程過ごした事があるので懐かしく、一度訪れたい気持ちがあったがチャンスに恵まれず長い年月が経っていた。日記を読んでくれている従妹と弟が誘ってくれたので、花の見頃を狙って23日と決めた訳である。全国的に雨と予想されたにも拘らず、幸い長野だけは夕方まで雨が降らず天気にもそこそこ恵まれた。よく知られている通り長野では梅、桃、桜が一斉に花開いて春が来る。

更に従妹が選んでくれた松代の東条は、これに加えて杏畑があり、杏の花まで楽しめた。さすがに曇っていたので残雪の北アルプスまでは展望できなかったが、それでも少し高台から望む善光寺平の春景色には、本当に心が癒された。東条の後は母方の先祖の墓がある豊栄の明徳寺(硫黄島で戦死された栗林大将の菩提寺としても有名)、象山神社、松代藩の城跡、真田邸や宝物館、藩校である文武学校を見学して従妹の家で夕飯を頂き、夜遅く帰宅した。

長野市は何処を訪ねても桜が満開、その割には人出が少ない。それだけに、こちらはゆっくりと心行くまで花を楽しめたと言える。それと改めて感じたのは信州の素朴さ、又は貧しさとも言えるかもしれない。これが実に心地よい安らぎを覚えるのだ。特に真田邸や宝物殿を見て、九州の細川や越前の前田家の宝物などと比較すると比較にならないくらい質素なものだ。高校時代の校訓が「質実剛健」だったが、貧乏でないと本当の意味で「質実剛健」教育は出来ないだろうと改めて思った。


2011年4月22日金曜日

区議会議員選挙

今月初めに駅の近くに引っ越したので、便利になったのは良いが、区議会議員の選挙カーがひっきりなしに前の通りを行きかい、一日中騒音に悩まされている。都知事選の時は殆ど騒音が無かったのに、この1週間は大違いである。特に今日は明後日に投票日を控えての事でもあり、皆一段とボリュームを上げているようだ。自民、民主、みんなの党、共産党等もっと沢山の党があったようだが、がなりたてている内容は殆ど同じだ。

確か36人とかが定員だった筈だが、当選したらどんな仕事がするのだろうか?調べた事が無いので何も分からないが、同じようなうたい文句の議員が40人近くいる必要はないだろう。そのうえ選挙カーはこちらにとっては迷惑なだけだ。婆さんに頼まれた候補者は大塚方面が地盤との事でこちらには回ってこない。今日あたりこちらに来ていたら、投票するのを止めたところだ。

2011年4月21日木曜日

年齢相応とは?

今日は幼稚園時代からの友人に誘われ、皇居近く如水会館(彼の出身校一橋大のOBクラブ)で昼飯をご馳走になった。食事の後、一つ橋から竹橋を通り、皇居を半周して半蔵門を経由して麹町まで一人で午後の散歩をした。

桜の盛りはとうに過ぎているので散歩をする人影はなく、たまにマラソンランナーが追い越して行くだけ。しかし皇居周辺はいつ行っても美しい。皇居の鬱蒼たる木々は芽吹きの時期なので、濃淡とりどりの若緑色が枝を蔽っている。土手のところどころには遅咲きの八重桜や、しだれ桜のピンク色のかたまりが混じり、濠の斜面には菜の花の群生している場所もある。天気は薄曇りながら寒すぎる事も無く、美しくも長閑な午後であった。

折角こんな散歩を楽しんでも、事務所に帰ると東北大地震関連や福島原発事故の情報に接してしまう。すると又気が滅入って、春なのにも余り浮いた気分になれないは甚だ残念である。昼飯を共にした友人はパソコンもいじらず、テレビも東北地方の災害報道はもう辟易で見る気がしない。スポーツ以外は殆どまともに見ないとの事だった。従ってほぼ3カ月ぶりだったのだが、スキーやゴルフや山の話が中心で、3月11日の事は互いの体験を披露し合っただけだった。

確かに、我々老人が今更世間の様々な事象にイライラしても何も始まらない。毎日のように不平不満見たいブログを書き綴るのは、どんな意味があると言うのだろう。考えてみれば、公衆便所の落書き以下の下らぬ事かもしれない。もっと意味ある暇つぶしを考えるべきか、欲張って何でも知りたいと思わないようにする事か。年相応を考え直した方が良いかもしれない。友人の生き方を羨ましく思い、少し反省をしよう。

2011年4月20日水曜日

がんばれ!河野太郎と原口一博

東北の大惨事からまだ1ヵ月ちょっと、惨事の収まりはなかなかに見通しが立たないに違いない。にも拘らずマスコミは、学校の入学式や始業式、仮設住宅への入居、漁船の出港、操業を開始する工場等、微かな動きを好んで取材して「復興の兆し」と一斉に書きたてる。余談になるが、我が国のマスコミはどうしてこのようにステレオタイプ又はワンパターンなのだろう。メディアが異なっても取材される人が同一になるのが不思議でならない。

政治も国会が再開され、相も変らぬ党利党略の足の引っ張り合いを早々と始めている。政権側が訳の分からない会議や本部を多数立ちあげたものの、現実対応がニーズにうまくマッチしていないのは明らかなようだ。菅総理が首を取られそうなところを地震によって救われたと、内心喜んでいても不思議はない。極端に言えば、国の三分の一が未曾有の大惨事に遭遇したようなもので、何処からどのように手をつけていいか分からない。総理自身も「正直に言えば、己一人の手には余る」と自覚はしてるだろう。

その時何はさておき、小沢氏と嘘でもいいから手打ちをして、党内の結束を図らなかった事が返す返すも残念だ。小沢氏も党員資格をはく奪されていては、子分が多少ブスブス騒いでも力量の発揮しようもなく、可哀そうではあるが、これで政治生命が完全に終わってしまうかもしれない。気は動転しているものの、菅氏も人並みの努力はしているつもりだろう。それをいいことに野党は言いたい放題だ。これだけの地域的な広がりで複雑な構造の大災害だから、一寸でも現地と連絡をとれば、クレイムは山のように集るだろう。

しかし自分達には当事者能力が無いので、直ぐに解決策を講ずる事は出来ない。出来るのは与党、そして政府にお願いする事だけだ。だからそれをマスコミと弦んでチクチクやれば点数が稼げるのも事実だろう。開催された国会もその応酬に終始して、実際に役立つ建設的な事は何事も起きない。只管指導力の無さを理由に、総理の退陣を迫るのみだ。勿論「はい分かりました。辞職します。」或いは「解散します。」とでも言うと思っている訳でもあるまい。

解散すれば自民党は圧勝するだろう。しかし選挙が出来る陽気ではないし、
民主党内でトップだけ替えても、小沢が葬りさられた今、変わり映えは期待できない。与党も野党も自分の生き残りだけを考えているにすぎない。何か方法が見つかって、仮に自民党に政権が移れば日本はどうなるだろう。官僚との関係が良好になるから、復興の実行がスムースになると言う説もある。

小生はそうは思わない。官僚に主導権が戻れば、それなりの縄張り争いが始まる。例えば財務と現場を持つ官庁、中央と地方、それぞれのバックに絡む政治家が異なるだけで、復旧復興策そのものは変わりのあろう筈も無いし、実行スピードが上がる保証は何も無い。むしろ自民党の天下となれば、しばし息をひそめていた被災地を食い物にする闇の勢力が暗躍し出すだろう。

そして民主党同様のお家騒動も始まるだろう。民主党は派閥と言っても大した事はないようだ。菅氏を守るか足を引っ張るかの二者択一に収斂してしまうが、自民の場合は古い利権構造が残っているだろうから非常に複雑である筈だ。まして今度の復旧と復興は金額が桁外れになる。自民の先生方が考えるのは、どうしたらこれを己の手の内で差配するかだけだろう。民主党議員は若い人が多いので、そこまで悪知恵が回る議員が少ないように思うのは贔屓目に過ぎるだろうか。ま、政権がどう転んでも官僚を裁き切れそうな政治家は見当たらない。どっちを見ても小者ばかりだなぁ。

小者が悪い訳ではない。月曜日のテレビ番組(たけしのテレビタックル)で、嘗て自民の河野太郎と民主の原口一博が協力共同で原子力政策の見直しを発議していた事を初めて知った。だったらここで、誰かが福島の事を本音で国民に話してほしい。東電や政府の発表は余りにも場当たりの楽観に過ぎる。即ち道筋は事故発生から最大の危機を脱し、安定の方向に向かい始めていると大半の国民は見ている。本当ならいいが、本音で語る人がいれば、最大の危機を脱したと言う時期ではないだろうし、工程表通りに事が運んでも、住民がもとの生活に戻れるのはかなり先の事とはっきり言うだろう。

2011年4月19日火曜日

せめての親孝行のつもり

桜の花がすっかり散ってしまったのに何故かうすら寒い。陽気にしてもそうだが、何事も一直線に旨い方向に向かうと言う事はないらしい。大陸から寒気団が張り出してきているそうだ。42年前の今日を思い出している。結婚記念日だ。当日も長野では雪が降ったような記憶がある。「4月の29日は不思議と晴れの日が多いが、10日前の19日は天候不順な日が多いのでは。」と婆さんに言ったら「私は晴れ女だから、誰かさんの行いが相当悪いのでは。」との返事。そうかもしれない。

それにしても大過なくこれまで過ごせた事は有難い事だ。朝飯を食いながらそんな会話をしただけで特に何をする訳でもないが、我が両親は結婚50周年の記念にアメリカ旅行をしていた。親父はもう80歳になっていたのではなかろうか。その当時でも弁護士の仕事を、量は兎も角現役でやっていた筈。小生71歳、辛うじて少し仕事にコミットしているとは言え、結婚42年で相当くたびれている事を考えると、明治人のエネルギーに改めて感心、親父を尊敬してしまう。

親父は91歳、お袋は92歳まで生きた。そこまで頑張れるかどうか、余り自信はない。しかし、海外旅行は兎も角、こちらももう少し元気を出そう。親の教えに背いてばかりだが、ひょっとすると・・・・・

2011年4月18日月曜日

復元力と言えば聞こえはいいが

16日(土)午後に行われたニコニコ動画「小沢一郎とフツーの市民 座談会」を見た。小沢一郎と言えども政権からボイコットされていると、殆ど1次情報は入手できないと実感した。福島原発の現状認識については、最悪の事態を本当に恐れているようで、殆ど小生と変わらない。即ち、破損が生じている原子炉を修繕しない限り、放射線の放出が続きチェルノブイリ以上に悲惨な状況が出現しかねないと本気で心配しているようだ。但し可能性については何の情報も無いようだ。

なんだかんだ言っても政治の世界で置いてけぼりを食っているので、当事者から最新の情報は入手できず、側近が集めた公開情報からだけの判断をせざるを得ないのだろう。当然一市民と同じような判断になってしまう。見計らった訳でもあるまいが、この配信直後の昨日に、東電が事故収束のロードマップを発表した。2段階のステージに分けてはいるが、9か月後には原発を安定化させる事が出来ると示唆している。

この発表が大本営発表でなくて真実であること信じたいのだが、どうも眉に唾をつけたくなってしまう。小沢が言うように放射線放出を止めない限り、現段階での安定化への工程表なんか、どう考えても気休めにしか過ぎないのではなかろうか。政府には小沢が知り得ない1次情報は腐るほどあるのだろう。それを十分吟味したうえで、確信を持って東電に発表させたものであればいいのだが、何か態々日曜日に発表させるのもインチキくさく思えてしまう。東電もしたたかな会社だ。

昨日やっと会長が責任の取り方についてコメントをしたが、数週前からは東電のテレビCMはジャンジャン流れている。1カ月近く口ごもっていた原発被災者への補償仮払いの発表も先週の事だ。学者は補償総額を数兆円かもしれないとコメントするが、当面の支出は500億円。対象世帯が約5万世帯、首都圏の主なテレビ局は5社、恐らく1社1億以上のCM良が支払われているに違いない。新聞もテレビも東電の悪口はあまり書ける筈が無い。

テレビ番組や新聞にも、震災後の復興についてのコメントが多くなっている。必ず出てくるのは、市民が生活を見直してエネルギー消費を抑えるべきとの意見。なんでかくも早々に消費者へのつけ回しが強調されるのだろう。蓮舫の肩を持ちたくないが、石原都知事の意見には前から違和感を持っている。戦後奇跡の復興を遂げた日本の復元力は定評があるが、今回はあまり復元してほしくない問題が多々ある筈で、電力供給なんかは根本から見直すべきだ。

日本の電気料金しか知らないから、電力供給体制について疑問を感じない人が圧倒的だろう。しかし、計画停電なんて事が何故起きるのか、根本に立ち返って考える必要がある。ヒラリーが態々来るくらいだからアメリカは日本に原発を止められては困るだろう。寺島実郎氏迄が、この事故の教訓を生かして日本の原子力技術を海外にもっと売り込むべき、と言っている。東電役員が何人か辞めて幕引きとし、根本にある原子力政策と電力供給体制を維持する事を前提の話だろう。果たしてそれでいいのだろうか?

2011年4月15日金曜日

チャイナシンドローム

311の大地震から既に1ヵ月以上経過している。政府は復興構想会議なるものを開催した。ギャラが高そうな先生を大勢招集して、年末までに提言を纏めるとしている。招集した側は、当然ながらその時期に提言を受け取るつもりでいるのだろう。正気かね?笑止の沙汰と言わざるを得ない。先月11日には外国人からの政治献金で追い詰められ、明日にでも辞職しなければならない筈であった人間が。

この期に及んで地位にしがみつく事以外何も考えていない無能な総理がトップだから、復旧復興の現場が混乱するのは当たり前だろう。やるべき事は何もせず、してはいけない事と必要の無い事だけをすると言われている。招集された復興会議でも、1回目から討議事項そのものに異論がが出て、議事が紛糾したと報じられている。招集された先生方も、これを機会に全員辞表を出してほしい。内閣が潰れれば、この会議もなし崩しになるのは目に見えているだから。

内閣からもボチボチと辞表を提出する人間が出ているが、大臣は無理にしても、副大臣以下全員が一斉に辞表提出をしてみてはどうだ。民主党を見直すがなぁ。総理の首を取る事は出来ないと言われるが、衆参合わせれば1000人近い政治家がいる。如何に何でも、年末まで菅内閣を存続させるほど政治家も馬鹿ばかりではあるまい。政治家の中には芸能人並みにテレビにばかり出演している人種がいた。最近政治家のテレビ出演が少なくなったのは結構な事だが、彼等は今何を考え、どんな行動をしているのだろう?

被災地の政治家は、東京の秘書も含め全力を地元対策に当てている事だろう。しかし1ヵ月を経過した今週、小沢一郎の東京での動きが報道され始めている。どんな政局が始まるか分からないが、菅総理辞任のニュースが流れる事を祈るばかりだ。

若い時に電力の毒まんじゅうをたらふく食ってきた事を棚上げにして、原発の事について書きたかったのが余計な事を書いてしまった。

この1ヵ月、所謂マスコミの原発事故関連報道を見ていると、毒まんじゅうを食い続けているのだから当然かもしれないが、本当に堕落していると改めて感じざるを得ない。今後電力関係の広告が全部止まるとしても、今こそ報道機関の使命に立ち返り、大本営発表を垂れ流すのではなく真実を報道すべきだ。

大手マスメディアの記者とて馬鹿ではあるまい。震災後インターネットには、従来反原発学者故にマスコミから追放されていた科学者の見解が溢れている。勿論、政府や東電の当事者やマスコミもこれらをチェックしている事だろう。小生のような老いぼれでさえ、1ヵ月経っても収束しないこの事故はかなり深刻で、一部燃料ペレットが融け始めているだろう、くらいの想像ができるようになった。幾ら事務系でも、東電や霞が関官庁に入るぐらい優秀な人間や大手マスコミの記者が知らない筈はない。

記者は何故互いに共通の認識を確認したうえで、聞くべきことを質問しないのか。日本が敗戦に向かってまっしぐらの事を知りながら、大本営発表を垂れ流し、後に責任を全て軍部に押し付けた当時の体質そのままである。誰もが知っているチャイナシンドロームの可能性については、反原発系の科学者でさえ発言を慎重にしている。

それほど恐ろしいのは十分分かるが、反原発系の科学者は誰もチャイナシンドロームの可能性を完全には否定していない。核爆発ではないにしても、1機だけでも広島原発の千倍以上の放射能が福島原発から数百キロの地点まで降り注ぐのは明らかで、そうなると隣接全機に手の打ちようがなくなり、汚染はどの程度になるか、想像を絶する事になりそうだ。少なくとも東京に人間は住めないだろう。

いくら馬鹿な内閣でも、この最悪事態を想定して御所を京都にぐらいは考えているかもしれないが、外国では本気で最悪のケースをシミュレートしているらしい。

ある学者に言わせると、そうなる前に先ず「原子炉に空いた穴をどうにかして止める」必要があるとの事。即ち、1号機か2号機の原子炉に直結している冷却水循環パイプの何処かに破断が生じている疑いがあるので、これを確認して、補修すれば何とかなるのでは。但しこれは物凄い高濃度放射線の中での仕事になるので、可能な手法と言えるかどうか分からないと言葉を濁している。誰も大ぴらには言わないだけで、関係者全員この程度の認識は共通なんだろう。

起こらない事を祈るが、さて起きた時、起こると決まった時こちらはどうするかだ。この先生が言うように、特攻隊が編成されるとしたら、昔と違って今度は年寄りが特攻隊員となるべきだろう。その時応募して国のために死ぬのも選択肢の一つかもしれない。

2011年4月14日木曜日

悪口三昧、腹に溜めておけないので・・・

日曜日の地方統一選前半戦で民主党が壊滅的な惨敗を喫したのは身から出たさびでやむを得ないが、都知事に石原氏が再選された事は残念でならない。友人が「それでも当選させてしまう都民が憎いです^ ^」と書いたが全く同感だ。ジャーナリストの田中良紹氏も「石原東京都知事当選の憂欝」と題して『「なるほどこの人は政治家の思考回路を捨て去ったのだな」と私は思った。』と綴っている。「天罰」はただの情緒的、ただの感情的な発言だし、「自粛とつましい生活をしようよ」は経済活動の再生を全く無視している。

石原氏が声高に叫ぶ「東京ダイナモ論」は彼の得意の理論だが、首都機能を分散してリスク軽減を図る見地からはピントが外れているとの事だ。アメリカは経済がニューヨーク、教育文化はボストン、政治はワシントンDCが中心だが、それより前に日本は三つの中心地を持っていた。即ち家康は政治を江戸、経済の中心を大阪に、教育文化は京都にと機能をうまく分散した。中曽根内閣時代の終わりに国会で移転決議が行われ、国会と霞が関を別の場所に移す事が決まった。ところが1999年に東京都知事に就任した石原氏がこれに大反対した。議論は次第に下火になり、誰も遷都を言わなくなったらしい。成程思い起こせばその通りだ。

そして田中氏は「現職が圧倒的に強かった。それはこの時期に選挙をやれば容易に予想できたことである。」『私は投票所で「こんな時期に選挙をやるのは愚か」と書いて投票した。』とも書いている。確かにプッツン老人に都政を預ける事考えると憂鬱にもなるだろう。小生は叶わぬまでも石原氏に過半数を取らせてはまずいと思って投票した。婆さんは、あと4年は本物の命が持たないのでは、と言っている。確かに映像を見ていると歩く姿が相当にヨタヨタしている。婆さんの予言は不思議に的中する事があるので、期待したりして。

何れにせよ、本人自身が「何をやるかと言っても、今迄通りにやるしかないのだよ。」と言っているくらいだ。皮肉で言えば、結局今まで通り週に1回程度の登庁で、何もしないで居てくれるのが都民には一番良いのかもしれない。東京は今のところ平穏なので、官僚の仕切りで何とか回って行くだろう。

一方国の方は危機的状況にあり、縦割りの官僚機構が機能不全に陥っている事は歴然である。意思決定の覚悟と責任を感じていないトップでは危機が深刻化するばかりだ。一刻も早くあのうすら笑いを浮かべた総理を代えなくてはならない。

2011年4月13日水曜日

政治家と官僚は暫し引っ込め!

関東以北の人ならば誰もが、福島原発の報道には重大な関心を抱かざるを得ない筈。メディアは連日関連の報道をしているが、書いたり喋ったりしているしている人間の誰を信用していいのだろう。何を信じればいいか分からない人が殆どであろうし、報道が何を伝えようとしているのかが分からない。「蛇だがミミズか分からない」との比喩を好んで使う小生だが、これは昨今の原発事故報道のためにある言葉みたいだ。

東電、原子力安全・保安院、最近はやっと原子力安全委員会もマスメディアに出るようになったが、何れの記者会見も、内容的には先ず、直近で確認された事実の報告がある。「やれ、どこそこの放射線数量がナンボと確認されました。」「かくかくしかじかの問題が見つかりました。」の類である。すると官房長官が出てきて、同じようなことを喋った挙句に「そんなに危険な状況ではありませんが、念のためこのような措置を講じます。」

これが大問題で、退避しろだ、水を飲むなだ、野菜や魚を出荷を停止だことの自粛しろと落ちが付く。政府はどんな気持ちで言っているのかと思っていたが、昨夜か今朝のテレビに前官房副長官の石原信雄氏が出演して喋っていたので分かった。「政府が最悪のことをストレートにコメントすると、市民がパニックになる。だからこれまでの政府の発表はうまく言っているとお思います。」

もともと自民党政権で長く勤めた人で、特に村山政権下で神戸の大震災の際官僚を仕切ったとの自負をお持ちのようだ。菅内閣は自民党以上に自民党臭くなっているから、きっと石原氏のご意見などを取り入れているに違いない。全く馬鹿げた話だ。(震災の)後始末と、現在進行している(原発の)大事故では、全く認識が違わなければならない事に思いが至らないらしい。

小生はこのところインターネットで、嘗て反原発派として原子力部落から疎外された学者の意見を多く聞いている。その結果、原発の大事故は既に政府や東電の官僚ではどうにもならない事態に至っているのは明らかである。どのような地位にあるかは別にして、原子力技術者で現場を十分知っている人間が前面に出て、市民の対策も含め意思決定をしなければ、もうどうにもならないだろう。金の勘定をしている場合ではない。先に東電を含めて意識的に官僚と書いたが、事務系の上位者に決済を求めるタイムロスが怖いのだ。

今は過去の立場に拘らず専門の科学者、技術者が力を合わせ、真剣に事に当たることを切に望んでいる。

2011年4月12日火曜日

読後感「随感録」浜口雄幸著

城山三郎の作品『男子の本懐』で有名な昭和初期の政党政治家。立憲民政党総裁・総理大臣として第1次大戦後の内政外交共に多端な時代に、建艦競争の歯止めをかける軍縮を成功に導き、外交的には世界平和の樹立、国内的には国民負担の軽減二つを樹立せしめた功績は大きい筈。しかし、これに対して軍部、特に海軍は戦が出来ないと大きく反発、きっと世論も大きく揺れたに違いない。

世界的な軍縮については各国の事情もあり紆余曲折はあったろうが、結局昭和5年10月初旬には日本もロンドンの海軍軍縮協定を批准するに至り、10月27日イギリス外務省における批准書寄託式の挙行に合わせ、米英日の大統領と首相が同時刻にラジオ放送を行う事で大団円を迎える事が出来た。浜口首相も一安心であったに違いない。しかしその直後11月14日東京駅でテロに遭遇、腹部に銃弾を受ける。その場では一命を取りとめるが、本復する事が出来ず翌年8月に亡くなった翌年の総理大臣浜口雄幸氏の遺稿集である。

東京大学法学部を卒業して大蔵省に入省、次官に迄登りつめた高級官僚であった人が、後藤新平氏の強い勧めで政治の道に入った理由なども綴られていて面白い。内容的にはタイトルの通り多岐にわたっている。著者自身が「随感録とは読んで字の如く感想の湧くままに従って書きつけるのであるから、何ら特別の目的はないが、題目を選ぶ時は主として修学時代の学生の精神修養上の参考の一端ともなろうと思われるものを選んでいるつもり。」と語っている。

学生時代に抱いた思い、役人から政治家になるきっかけとなる人間との出会い、政治家としての基本と考え苦手な演説をものした事、日本と世界平和を志し、その達成のために乗り越えねばならなかった様々な障害等々。修学時代からは大分年月が経ってしまったが、大いに精神修養上の参考になった。中でも印象的なのは「趣味道楽」と「読書」についてである。彼は自らの本分と信じる事にのみ専念して一切の趣味道楽をしなかったらしい。

大正から昭和の初めと言えば、日本が最も華やいだ時代である。にも拘らず、国家国民の安寧だけに専念した政治家が存在したとは何と羨ましい事だろう。また、読書についても「書を読まざるの説」なる項目を立てて多読を戒め、良書を精読する事を薦めている。昔の人は日本語に対する基本が異なるのだろう。漢文の素養はかなり高いし、文章もかなりしっかりして現代の政治家の本なんか比べ物にならない。

世情騒然として本を読む気も起きなかったが、久方振りに良書に巡り合った。但し、乱読を戒められ恥ずかしい限りだ。


2011年4月11日月曜日

さくら、さくら 卯月の空に


夕方急ににわか雨が降ってきた。東京は今が桜の満開。ここ豊島区でも桜の名所は沢山あるし、直ぐ近くの小学校や高校の桜も見事に咲いている。昨日も今日もついさっきまで天気が良かったので、自宅と千川駅や事務所との往復に十分楽しませてもらっている。なのに昨日は態々鎌倉まで花見に出かけた。いきつけのプールが休館日に当たっていたので、運動不足解消の意味を含めての事。まさかご近所10分足らずの場所にある桜のもとで弁当を広げる訳にもいか無いので仕方があるまい。

鎌倉は池袋から意外と近い。湘南新宿線に乗ると、普通列車でも北鎌倉まで65分で行けてしまう。朝食を済ましてゆっくり新聞にも目を通してから家を出たが、10時ちょい過ぎには北鎌倉に到着。先ず円覚寺をお参りしてから建長寺に向かった。参拝後、境内の裏山から天園ハイキングコースが設けられている。鎌倉アルプスの異名を持つもので、鎌倉霊園の裏山になる天台山なる140m程の丘を巡って瑞泉寺、鎌倉宮、鶴岡八幡宮を経て鎌倉駅に至るコースである。円覚寺が標高30m程だから標高差は僅か100m、建長寺の裏山に入ると標高100m前後で上り降りが5キロ程続き、一寸した山登り気分も味わえる。


JRの北鎌倉と鎌倉間は僅か2キロ一寸だが、このハイキングコースは山道も程良く整備されて10キロ以上は歩けるようになっている。お年寄りや子供づれのファミリーにも人気があるようだ。殆どの人がスニーカーで、踝まである靴を履いている人は殆ど見かけなかった。しかも高尾山程には混んでいないし、鎌倉の市外に入ればしゃれたお店に不自由はない。小生も井上蒲鉾店で吹き寄せの一番小さな折(確か950円)を土産に購入、婆さんに喜んでもらう事が出来た。なんでもこの店は池袋のデパートには出店していないらしい。鹿児島だの小田原の蒲鉾は沢山出店しているらしいのに。

肝心の桜は随所に咲き乱れ、大勢の人出でにぎわっていたが、噂にたがわず外国からの観光客らしき姿には殆どお目に掛からなかった。少し残念ではあるが、これはやむを得ないだろう。せめて首都圏の人には、日ごろの憂さをしばし忘れて、昨日今日明日と行く春を十分堪能して貰えばいいだろう。

2011年4月8日金曜日

今ここにある危機

今週は事務所の引っ越しでニュースを詳しくチェック出来なかった。しかし昨夜の余震も凄かったし、311の大災害がずっと尾を引いている事だけは確かだろう。福島原発至ってはなかなか状況改善の兆しが見えないようで、言いようの無い不安が大きくなってくる。大手メディア報道は意識的に刺激的な事実を避けているようで、聞いても蛇かミミズか訳の分からない事ばかりだ。

常識で考えても、事故の根本が終息しないで放射線が1カ月近く出っぱなしになっていれば、放射線による健康被害は量的にも大きく、範囲的にも広がってくるのは当たり前だ。その根本は今日インターネットでやっと分かったのだが、核燃料の一部が損傷して溶け出している事とそれを閉じ込めているお釜に損傷、極端に言えば底が抜けた状態らしい。水で冷やさなければならない釜の底が抜けているので、水で満たす事は出来ないらしい。

聞いていると、賽ノ河原のように水を注ぎ続ける必要があるようだ。結果としては放射能に汚染された水が際限なく増えていかざるを得ない。本来こうした水は厳重に管理保管されるべきものらしいが、持って行き場が無くて海へぶちまけたらしい。随分思いきった事をしたものだと思うが、幾ら日本のトップが馬鹿でも、そうせざるを得なかったのは余程差し迫った事態になっているに違いない。外国から見れば東京=チェルノブイリだろう。

「海はゴミ捨て場じゃない」と怒る漁民代表の気持ちや韓国政府の立場もよく分かるが、アメリカやフランス政府が沈黙を守ったうえに、来週はクリントン国務長官が来日するとの事。これも何か不気味でもある。もしやお悔やみに来るのではないだろうな。当然彼らは福島には重大な関心を持ち、最大限の情報を収集したうえで我が国の状況を分析している筈だ。

我が家は老夫婦だけなので半ばあきらめの境地もあり、極力この手のニュースには接しないようにしている。しかし最近は、「スーパーに買い物に行ったら、孫用のむつがお一人様1パックしか購入できない。」なんて事から原発に話が及び、孫達が可哀そうだとの会話が出始めている。もうメディアも根性を決めて、素人にも分かるようにいま日本がどんなに危機的な状況にあるか、真実の報道を始めるべきだろう。

誰もが無責任だし、今それを言うつもりも無いが、メディアが真実を語ればそれは責任ある態度に他ならない。

2011年4月7日木曜日

荷かたづけの終了


3日連続の晴天に恵まれて引っ越しと部屋のかたづけがやっと終わった。明日段ボール箱と処分した書類や本を区の清掃局に持って行ってもらえば、本当の終了になる。今度の部屋は小さいながらも一応玄関ホールが部屋の領域と区切られている。足の踏み場も無かった部屋も、段ボール箱を全て一纏めにして玄関に出すと前の部屋より大分広い。前の部屋は作り付けの棚と半畳の押し入れが付いていたのだが、今度はそれが無い。

置いてある家具は前も今度も同じだが、机2、椅子3、パソコンデスク1、書棚
1、書棚用キャビネット1、ソファーベッド1で、何れもリサイクルショップで調達した小振りのものばかりである。机なんぞは幅85cmの天井板に4本脚が付いているだけなので、機器の配線を巻きつけるには好都合だが、見た目はお世辞にもきれいとは言い難い。各デスクの上に1台ずつパソコンが置かれているが、それでいっぱいで書類を置く余裕すら無い。尤も仕事をしている時でも余り書類を手書きする事も無かったので、そんなに不自由はない。

文字ではイメージが湧きにくいので写真をと思ったらカメラが無かった。取敢えず携帯のぼんやりした画像をご覧いただく事にします。運んできた家具と機器を出来るだけコンパクトに纏め、書類と本を書棚とキャビネットに押し込んで、兎に角段ボール箱28個を空にして部屋から押し出すと部屋が急に広くなった。前の部屋は四畳半と六畳の二間だったのに床の空きがそんなに無かった。今度もワンルームながら広さ的にはそう変わらない筈だが、マットを敷けば全身のストレッチ運動が出来そうな余裕が出現した。

何と言っても今回は曲がりなりにも鉄筋コンクリート仕立てで、下の1階はコインランドリーだ。多少どさんどさんやっても苦情は来ないだろう。前の部屋は隣が学校の住宅街だったが、今回はビルの狭間の感が無きにしも非ず、窓外の景色はビルの裏窓と電線が複雑に交差していて見苦しいと言えば見苦しい。しかし学生の大声やブラスバンドの騒々しさを考えると奇妙な静けさでもある。婆さんは未だ見ていないが「板橋の田舎から豊島の商店街に進出した訳ね」と言っていた。

当たらずとも遠からずだし、住めば都となる事だろう。

2011年4月6日水曜日

終日肉体労働

本日は終日荷物の片付け、配信されてくるメルマガをはじめインターネットの情報は勿論、テレビも見ずじまい。最近は自宅でも殆どニュースを見ない。原発関係の話は見ても意味が分からないし、他も心ときめくような事は何も無いのは分かっている。

被災地のボランティアではないが、こちらも軍手と雑巾のお世話になりながらよく働いた。さすがに腰が痛い。狭い部屋にいろんなものが収まり、段ボール17箱が空になり、4箱は開封せずにへやの片隅に積み上げた。残るは9箱、明日にはすっかり方が付くだろう。

2011年4月5日火曜日

事務所の引越し

小さな事務所ではあるが、7年居た場所を引き払うとなると結構な荷物があるものだ。荷物と言えば聞こえがよいが、重いばかりで永久に見る事がない書類や書物が大半を占める。他にはパソコンと周辺機器類、これが肝心で新事務所で以前同様に再設定をしなければならない。引き払いに関しては、昨夜から機器類の取り外しをしたりして若干準備を初めていた。そこにプロの引っ越し屋さんが3人来て、手際良く梱包してくれたので1時間半ほどで完了。

鍵を返却して新事務所へは僅か10分で到着、荷降ろしも30分程で完了。ここからは一人の作業となる。デスクと椅子は少ないが、昨日イメージしていた配置では通信機器との関係で具合が悪い事が分かり、急遽あれこれトライして11時頃にやっと決定。続いてパソコンと周辺機器を開梱してそれぞれの位置を決めた。前の事務所に比べれば少しは機能的になったようにも思う。

一段落したので遅い昼飯を食ってから、13時半に2代目社長に来てもらって機器の設定をしてもらった。お陰さまで環境はすっかり復元され、こうやっていつものように日記をかく事も可能になっている。中古のワンルームアパートだし、カーテンなんぞも旧事務所の物をそのまま使い回しているので若干新味に欠けるが、それでも気分が一新して一安心である、他の荷物は梱包のまま転がっているし、ネズミに糞にまみれたゴミの果てまでこちらに運んできているので、今週はそれらの処分に励むのだろうが、又楽しからずやだ。

2011年4月4日月曜日

誕生日

今日は満71歳の誕生日。目出度くもあり目出度くもなしかもしれない。いつも晴れた日が多いが、今日も又よく晴れている。しかし風が例年に無く冷たいようだ。若い人と話をする時に、よくこの言葉を使う。「君が私の年齢になるまでには気が遠くなるくらいの時間がある。その間に何が起こるかとても見当がつくものではないよ。」未だ結婚もしていなかったから27,8歳の頃、30歳ぐらいは先輩のお客さんから言われた言葉だ。当時は確かのその通りだと思ったし、今省みても予め想像できた事なんか何一つ無かったのも事実。

人間夢や希望を持たなければいけないと思うが、人生て奴はなかなか計画通り、思い描く通りにはにはいかないと言う事を改めて思う。気が付くと思いもかけない場所に立っている自分に気が付く事になる。10年前にどうして現在の自分を想像できたろう。1日1日は大して変った事をしているつもりはないのに!これから先はどうなる事やら、今度こそ余り変化の無いコースが約束されているようにも思うが、行ってみなければ分からない。どこかで入院しているとか、特養老人ホームに入居しているとかは出来るだけ想像しないようにしているが、神のみぞ知るところだ。

これはちょっと前から計画していた事だが、今日を期してウィークデイの昼間使用していた仕事部屋を引っ越す事になっている。明日が本格的な引っ越しなのだが、今日の14時から、引っ越しに先立ち電話回線を移動する事になっている。先月の半ばに申し込んだ際は、東日本大震災の影響で5日の引っ越しに間に合わないかもしれないと宣告されていたが、幸い今日移動が出来る運びになった。電話番号も変更せずに済んだのでほっとしている。

後1時間足らずで光回線が切れるので仕事も終わり、携帯は公衆電話機能以上には使えないので、インターネット関係は全てPCに依存している。従って本日は早めに日記をアップする事にした。

2011年4月1日金曜日

希望的に過ぎるか

広告業界に長い事身を置いたくせに、景気とか経済については全くの音痴である。

まして国の経済とか言われると本当のところは見当がつかないが、今度の震災が大小の企業活動に甚大な被害を及ぼし、これが経済に相当なダメージを与えるであろうことぐらいは想像できる。卑近な例だが、自分の仕事として管理しているホームページの3月のアクセスが対前年比で一気に3割も落ち込んだ。10年以上毎月同じ統計を見ていて、こんな事は初めての事である。幾ら海岸線500km以上にもわたって被害が生じているとは言え、人口の3割が被災している筈はない。

こんな些細な事にも、今度の震災が日本全体に物凄いインパクトを与えている事が現れている。友人たちの便りを見ていても、ニュースだけでは分からない意外なところで企業活動の停滞が生じている事が伺える。しかし、この経済への悪影響はいつまで続くのだろう?ここから先が経済音痴の由縁或いはノー天気でもあろうが、意外とこれがバネになって経済が活性化し、20数年続いたとされる景気の後退期を脱する事が出来るのでは、と思ったりしてしまう。

方法論は分からないが、当然政府は復興資金を供給するだろうし、被災された方も不愉快ではあっても、貯め込んでいた預金を下ろさざるを得ないだろう。生産活動が休止しているメーカーもそれを見込んでシャカリキに生産活動の再開を期すだろう。今までデフレだとか言って、個人が貯め込んだお金を如何にして市場に回すかを考えていた方面にとっては千載一遇ではないかと思えてくる。

太平洋戦争直後とは違ってグローバルな時代だから、外国が甘い汁を吸いに入ってくる事は用心する必要はあるだろうが、日本人の中からも震災を奇貨として平成の紀伊国屋文左衛門みたいに、大儲けする人間や企業が出現するのは善しとせざるを得ないだろう。思えば昭和20年幼稚園の時に終戦を迎え、それから10年後の昭和31年に中学校を卒業した。それから以降20年ぐらいの生活の変容はある意味で夢のようでもあった。世界が日本の奇跡と認めた由縁でもある。

不謹慎だが、敗戦に比べれば今回の大惨事も未だましかもしれない。助走の10年が何年になるかは知れないが、何処かの時点から昭和30年代の急成長が必ずや再現される事になるだろう。小生は残念ながらその再来を見る事は出来ない。