2010年7月30日金曜日

国民健康保険高齢者受給者証

今年の4月4日に目出度く満70歳になった。すると5月1日付でタイトルに書いた紙(ビニール製ホルダー付き)が送られてきた。後期高齢者と言う制度があるのは知っていたが、その前段階で東京都には高齢者と言う制度もあるらしい。添えられている印刷物を読むと、受診時の医療費負担が10%で済むのと都バス都営地下鉄の無料パスが只同然で貰えるらしい。これは有難いと思って更に読み進むと、都民税を支払っている高齢者にはこの恩典が適用されない事が分かった。

「何だ、がっかりさせてくれるぜ」と思ってほったらかしにしておくと、今度は医療機関の支払い窓口で提示を求められる。「私は恩典関係なく3割負担です。」と言っても「必ず次回は持ってきてください。」と注意される。頭に来て、区役所に電話をして文句を言った。「用も無いのに保険証を2枚(しかも大きさが違って、高齢者用はカード入れに収まらない)持ち歩くのはこちらでも余計な手間だし、そちらとしても資源の無駄遣いでないの?」可哀そうに係の人は謝るばかりで論理的な返事が出来ない。

その問題の高齢者受給者証有効期限が再び送られてきた。前回の有効期限が7月31日迄で、今回のは来週8月1日から1年間となっている。国民健康保険センターか社会保険センターかは忘れたが、毎年度末(初?)に同じ書式で本人確認のハガキを出すように義務付けられている事も思いだした。一度50円切手をはらずに出して突き返され、婆さんに叱られた事があるのでよく記憶している。

これも又同様で、なんでこんなに手間暇をかけるのだろうと考えている時に、昨日「生きていれば111歳の老人が30年前に亡くなっていた」と言うニュースが出てきた。どうやら年金詐欺の疑いがあるらしい。成程、社会保険のお世話になっているご同輩や親族の中にはいろいろ良からぬ知恵を回すやつがいると言う訳だ。
役所の発想で行くと郵便物のやり取りで、存在確認を丁寧にしたいと言う事だろう。

しかし、年度毎に郵便物のやり取りを幾ら丁寧にしてもその手の犯罪防止には役に立つまい。もっと抜本的に国民の存在を確認するシステムが必要になるだろう。それには先ず国民の総背番号制が必須の要件の筈。個人情報が云々カンヌンと言うが、現在幾重にも重なって振られている個人番号からの情報漏えいは、送られてくるDM等からすると明らかである。いっそ、生まれた時に振られた番号を全省庁全自治体が共有して、<個人と国家のお金の出し入れ>を生涯に亘って全て記録するシステムを早く構築してほしいものだ。

高々1億数千万程度の個体しかないのだから、簡単なものだろう。血筋が分かるだの犯罪履歴が分かるだの、言い出せば付随する情報の気密性を如何に確保するかで議論が百出する事だろう。技術的には簡単な事だろうから、そんな可能性(危険性)は否定しえないが、少なくとも小生にとっては何も問題が無い。役所の整理と効率化が長年の政治課題になっているが、個人総背番号制の統一化が実現すればかなりの省力化になる筈だ。エリート官僚はとっくに分かっているが、自分の組織が発行した番号を死守しながら、新たな番号を発行するのに懸命なだけだ。こういう発想が消えた年金の原因だろう。

これで日本の税・年金・健保システムがハッピーになる筈が無い。

読後感「謙信びいき」火坂雅志 著

豊島区の図書館に行ったが、触手の動く小説が無かったので、前回の久世さんの随筆同様火坂氏の随筆を借りてきた。彼がNHK大河ドラマ「天地人」の作者である事を知ったのは最近の事で、「天地人」についてはドラマも見ていないし、本も読んでいない。安国寺恵慶を描いた「墨染の鎧」と、後は伊達正宗について書いた「臥竜の天」を下巻の途中まで読んだだけだ。

この時に思ったのだが、時代小説は戦国時代のある武将を書くとすれば、当時の横の繋がりをかなり克明に調べなければ書けない事に思い至った。逆に言えば1人を調べれば、他に何人分ものネタが揃いそうだとも思ったりした。中国地方の恵慶の後で東北の政宗伝を読み始めて途中で止めてしまったのは、そんな事を感じた事もある。しかし今回この随筆を読んで、それは著者に対して失礼な事と思い至った。

やはり時代小説は中途半端にいい加減な事を書く訳にはいかず、綿密な時代考証が必要で、当事者に関しては書かれている事の何倍に当たるか想像できない程、細部に亘って史料の検証や伝承のチェックをしているようだ。更に歴史については日本国だけでなくアジアは勿論もっと遠い国々との関係に迄実地に見聞する必要もあるようだ。

そういった努力や訓練があって初めて作家としての想像力イメージを膨らませる事が可能になるのだろう。この本はそういった準備運動と言うか、様々な活動(取材)の中で小説として活字なっていない事実や著者の思いが述べられていて、楽しい読み物になっている。

著者は越後新発田の出身、著者よりすこし年寄りとは言え、お隣信州長野の出身の小生も紛う方無き「謙信びいき」である。尚、もっと身近な真田一党一族に関する話や「えご」が何故信州で食されるかについてなど、我が故郷について知らない事も沢山知る事も出来たし。もの書きという仕事をする人は大したものだと大いに感心した。

2010年7月29日木曜日

読後感「遊びをせんとや生まれけむ」久世光彦 著

著者は元TBSのドラマプロデューサーで有名な人。「時間ですよ」等多くのテレビドラマをヒットさせただけでなく、作家としても数々の賞を受賞している才人である事は予てから聞いていた。著書を読む事を勧められた事もあるが、ただなんとなく今まで1冊も読んだ事が無かった。今回一読して改めて文学的才能に敬意を感じた。

5歳年上だがほぼ同じ世代なので、10代20代の時代背景、社会風俗がよく理解できるし、著者と同じ感慨を持って振り返る事が出来る。又著者の仕事場がテレビ局の制作現場で、小生の仕事から比較的近い関係にあった事も共感を覚える一因でもあろう。

テレビドラマなんかは特にそうであろうが、自分自身が面白くなければ、他人が見て面白いものなんか作れる筈が無い。多分この信念を貫いて生きた人なんだろうと思う。非常に幅の広い交友関係を持つ一方で、相当な量の書物、映画や演劇などの演芸を自ら吸収して豊富な知識を有した上で、そのエッセンスを吐き出すように書いている感じもある。それが文学的才能と言うものだろう

残念ではあるが著者は06年に亡くなっている。70歳か71歳だろう。人生を「遊び」の一言で括っているが、著者にとっての遊びは、いつも真剣で全力投球であったに違いない。小生の友人にも何人か似たようなタイプの人がいるが、えてして短命なように思う。こう言った人は長生きなんて事は夢にも考えず、只管今日を最大に楽しんでいるのだから、「わが人生に悔いは無し」と言う事に違いない。長生きを念じて汲々としている身からすると男らしくて立派なものだ。

余談になるが、自分が生きた世代を後でふり返ると「成程」と思う詩が最後の方で引用されていた。その1節が下記だが同感である。

望み叶って幸せになったら
すぐに昔が恋しくなるだろう
あんなに素晴らしく
不幸だった昔が

2010年7月28日水曜日

延びれば目出度いか?平均寿命

厚生労働省は26日、2009年の日本人の平均寿命は女性86.44歳(長寿世界1位)、男性79.59歳(長寿世界5位)で、いずれも4年連続で過去最高を更新したと発表。ある意味で目出度い話かもしれない。昨夜も「俺も人並なら、後10年程は皆さんの御厄介になって生き永らえる事が出来るかも知らんな。」と言うと「大体そういう事を言い始める人に限って、人の迷惑顧みずではないけど長生きをしがちなのよ。」といつもの会話になった。

今月の初めに読んだ40年前の朝日新聞夕刊のコラム「今日の問題」によると次のように書かれている。
>戦争の後で「アメリカ年齢」なるものが言葉が出来たように、それまでの数え年を満年齢に代えて「一億総若返り」をした事がある。その上、今では私たちの平均寿命も、男が65.2歳。女が69.9歳にまで伸びた。「人生僅かに50年」は明治と共に遠くなりにけりで、メデタイことには違いない。1961年1月7日<

長生きは昔も今も当事者にとっては目出度い事かもしれないが、社会共同体からすると、昔でいえば姨捨伝説のを持ち出すまでも無く、現代でもちと「はた迷惑」が本音ではなかろうか。この数日は日中よたよたと町中を彷徨する老人は減っているが、老人の熱中症による家の中での死亡数がうなぎ昇りだ。自分も転んで怪我をしているのだから偉そうには言えないが、歳を取ると五感のセンサーやバランス感覚が劣化してくるのに気がつかない事は間違いない。

要するに先祖がえりで、段々子供と同じになっていくわけだ。「子供を社会全体で育てよう」は良いが、年寄りはそうはいくまい。平たく言えば「社会全体で気持ちよくあっちの世界に送りだそう」の仕組みが出来ても不思議はない。平均寿命も最早延ばせば良いと言うものでもなかろう。今月発売の文藝春秋8月号の巻頭随筆のトップに御年90歳の阿川弘之氏が老いさらばえて生きる辛さを書いているが、鬼気迫るものがある。

氏も海軍の軍人さんだから、若い頃はきっと溌剌としたものだったろう。それが幾つくらいからこんな気持ちになるのだろうと思いながら読んだ。自分なりの結論は「友」に尽きるだろう。父や母は共に90歳まで生きたので、それにあやかりたくて健康には相当に気を使っているが、これからの人生でもっと大事に考えなければいけない事があるようにも思う。暑さでボーとなって何を書いているか自分でもよく分からないままに・・・・。

2010年7月27日火曜日

今はやりの「ブログ」なるもの

昨夜は少し雨が降ったが今日は朝から相変わらずのカンカンでりだ。膝の怪我も順調になりつつあり、平地を歩くにはさしたる違和感も無くなって来た。明日には抜糸と言われているので、今度の週末は久し振りに水泳も出来る事だろう。婆さんはパソコンを触らないのでブログを読む事は無いのだが、先日のブログを読んだ娘が怪我を心配して電話して来たそうで、夕食時に大分とっちめられてしまった。

大体ブログなんてものを何で書くか気がしれないし、内容も趣味が悪すぎる。遊び歩いている時に転んでちっとばかり怪我をしたくらいで大げさに、気持ちの悪い写真まで公開して、一体何を考えているのですか。年寄りは他人に心配・迷惑をかけずに静かにしていなければいけない。のだそうだ。日記なんか書きたければ書いて、本棚にでも仕舞っておくだけで十分でしょう。と大変な剣幕。

このところ暫く見ない孫達が夏休みに入っているので、祖父さんのお見舞いにかこつけて襲われるのを大いに警戒している様子。どんなに警戒しても来る時には来る、と口答えしようと思うのをぐっと思い止まった。つまらぬ事で夫婦喧嘩をしても始まらない、飯がまずくなるだけだ。

確かに日記を公開する神経は常識的な人間のものではないかもしれない。偽善と露悪は別にして自己顕示欲が異常に働かないと出来るものではないだろう。まして自ら大勢の人に読んでほしいと言っているのだから、ブログでしょっちゅう批判的に書いているテレビに出たがりの政治家やコメンテータと変わりないかもしれない。些か自己嫌悪を感じながら反省するが、なかなか止められそうにない。

2010年7月26日月曜日

大いに遊べ

子供が夏休みに入ると、朝の往来から子供の姿が消えて急に寂しくなる。強い陽射しの中を企業戦士のおじさんとおばさんが黙々と歩くだけで、ちっとも面白くない。しかし子供にとっては楽しい夏休みだ。思う存分仲の良い友達同士で遊びまわればいい。24日に内閣府が発表した「ひきこもり」に関する調査によると、家や自室に閉じこもって外に出ない若者の「ひきこもり」が全国で70万人に上ると推計されるとしている。(調査対象は15歳から39歳の男女5千人)

「ひきこもり」になったきっかけは<職場になじめなかった><病気>が共にトップの23.7%<就職活動がうまくいかなかった>20.3%と続き、更に<小中学校時代の不登校>と<人間関係がうまくいかなかった>11.9%となっている。有名人にも「ひきこもり」の経験者がいるぐらいだから、一概に全ての「ひきこもり」を社会悪と糾弾する訳にはいかないだろう。しかし往々にして、「ひきこもっていた人間」がある日突然凶悪犯罪に走っている実態も無視は出来まい。

原因は様々あるだろうし、事の善悪、好むと好まざるに関わらず家族は核家族化、家族の中でも親子兄弟間のコミュニケーションは少なくなる一方が現代の実態だろう。代わりにテレビラジオにゲーム機やパソコン、マンガに音楽とひきこもっていてもする事に不自由が無いと言う事に違いない。この辺が我々の世代とは大違いで、旨いコメントが出来ない。一つ希望的に言うとすれば「大人たちは自分達で大いに羽を伸ばして遊んでいる。しかし、子供たちを遊ばせないようにし過ぎているのでは?子供たちを小中学校時代に、家の外で兄弟や友達と思いっきり遊ばせてみたら」だ。

最近社会環境的に危険が一杯になっているせいか、子供同士で遊んでいる姿が少ないように感じる。近くの児童公園に小さい子供は沢山居ても、大抵保護者同伴のようだし、小学校の校庭開放で見ても子供同士で遊びに来ているのは少ないようだ。野球やサッカーのチームに入っている子たちさえ親が遠くから練習を見ているではないか。確かに子供同士で遊んでいて、池や川に落ちて溺れ死ぬと言ったニュースに接すると、子供同士で外に出すのは危険に違いない。

家屋が狭くて子供の遊び場が屋内に無かった時代は、子供は外に出て遊ぶしかなく、外に出れば幼いものは年長の指示に従って遊ばざるを得なかった。自ずから年長者は下の者に対して些かの責任を感じたものだ。従って自分で責任を負えるところまでしか、仲間を引っ張って行く事は無かったと思う。1本向こうの通りや隣町の神社に行くことだって大冒険だった筈。別のケースになるが、友達のお父さんに川に連れて行った貰って、泳ぎを最初に教えてもらった事が強い印象として残っている。

小生でさえ子供が小学生の夏に、娘姉妹とその友達数人を率いて池袋のマンモスプールに通った事がある。今更こんな事を言っても始まらないかも知らぬが、夏休になったら子供の勉強なんかより、友達関係を充分ウォッチして仲の良い友達作りに手を貸すのも親の大事な務めだろう。

2010年7月23日金曜日

今日は大暑 就寝時のエアコン

暑いの寒いのと言ってはいけないが、今日くらいは許してもらいたい。今週は熱中症の死亡事故が連日報道されている。最近は日射病と言う言葉を聞かず、殆ど熱中症だ。家の中にいても死んでしまうのだから日射病ではないな。やはり高齢者に多いそうで怖い事だ。昨日病院の待合室でテレビを見ていたら、熱中症対策で「寝る時にエアコンのタイマーを1時間で切れるようにセットして就寝するのと、エアコンをつけたまま寝る」を比較していた。

タイマーをセットするとタイマーが切れてから急速に体温が就寝前の状態まで上がってしまい、安定的な休息にならないようである。これまではエアコンを入れたまま寝るのは、体が冷え過ぎて健康上良くないと思っていたが、どうも逆のようである(室温が安定していれば、体温は一旦常温以下に下がっても自動的に常温に戻るとの事)。婆さんは昔からエアコンつけっぱなし派なので、「当たり前でしょ、だから前から言っていたじゃありませんか。」と自慢顔だ。早速昨夜はエアコンをつけたまま寝てみた。成程、暑苦しくて夜中に目を覚ます事もなかったので目覚めが快適である。

昼間も、未だ歩行が困難なので出来るだけ外出しないし、出歩く時はバスに乗る、これが涼しくて実に快適だ。この快適さが癖になりそうだ。明日も病院に行くだけでプールにも行けない。そのうちには「プールに行けない」ではなくて、「プールには行かない」「暑い日には出歩かない」となってしまうだろう。どこかでこの怠け癖を断ち切る必要があるとは思いながらも、一種の恐怖感に苛まれている。

2010年7月22日木曜日

怪我の功名と人体の妙

山で怪我をして歩く事さえやっとの状態、加えてこの猛暑だ。仕事は後継者が頑張ってくれているので、家でゆっくり休めばと思うのだが。案に相違して、連休明けの火曜日の午後から新社長と一緒に得意先に行く事になってしまった。新しい仕事に関する話である。縦走をゆっくり楽しんで火曜日に帰京、なんて事をしていたら「体制も変わった事だし、今回の話は遠慮してもらう。」になっていたかもしれない。正に怪我の功名だ。

火曜日朝一で最寄りの整形外科を探して8時半に飛び込む。普段はまず使わないバスを利用したが、走る事も早足も出来ないので目前で1本乗り遅れてしまい悔しい思いをした。昨夜婆さんから聞いてはいたが、整形外科の待合室は老人で溢れかえっている。整形外科は怪我の患者より老人性腰痛等のリハビリセンターの態をなしている事を初めて知る。今年開業したばかりで綺麗で広々した施設に大勢のスタッフがいるが、先生はどうやら一人らしい。下衆の勘繰りになるが「こりゃすぐに元を回収できるだろう。」

傷の措置を終えて、炎天下を日本橋方面迄足を引きずって行って仕事を無事済ます事が出来た。お陰で急に忙しくなり昨日も今日も午前中は医者通い、午後からは打ち合わせで都内を駆けずり回る羽目に。傷も5日目になると痛みがかなり薄らいできている。昨日既に膿出し用のドレインを引き抜いて、経過はかなり順調との事。むしろ包帯の下でガーゼを止めているテープにかぶれて、膝の回りが痒くて仕方が無い。

それにしても人間の体、特に神経とは微妙なものと感心する。膝を深く曲げたり、患部に直接触れない限り大した痛みは無いのだが、どうしても普通に歩けない。一寸の無理に神経は敏感に反応するのである。特に階段の昇り降りと座った姿勢から立ち上がる時が一苦労だ。我が家は旧式故に食事は座って摂らなければならない。座る時は右足を投げ出したまま腰を落とす事が出来るが、立ち上がる時に右膝を使えないので、どうしても両手と片足に頼った変な姿勢とならざるを得ない。

未だこんな状態なのに怪我した直後の10時間近く、どうして歩けたのか不思議で仕方が無い。外傷部位で痛みを感じるセンサーは当然稼働しても、脳かどこかでそれをブロックしてしまう別の神経回路見たいものがあって、それが同時に機能していたとしか考えられない。何れにせよ身体は休養を命じているのだから、今度の土日はゆっくりしよう。婆さんも言っていたが、登山用のズボンも丁度処分すべき時に来ていたようだ。登山用品店に代わりを買いに行く事にしよう。

2010年7月21日水曜日

北アルプス縦走 針ノ木岳~岩小屋沢岳 7月18日


早朝未だ真っ暗と言うのに部屋の中が騒がしい。隣のおじさんは横浜から来たカメラ好き、朝飯は頼まず何処かでご来光の写真を撮りたいとは聞いていた。その向こうの20歳前半の青年2人は名古屋から電力会社の社員、昨日雪渓で転倒して顔を岩にぶつけて歯を折ったらしい。そのため新越方面に向かうのを諦め雪渓を下山するかもと聞いていた。と言いながら夕飯は小生よりしっかり食っていたし、昨夜寝る直前に「やはり、明日早朝蓮華岳には行っておきたい。」みたい事を言っていた。その向こうは3人は明らかに関西人で、女性1人部屋に残し男性2人は昨日蓮華岳は行って来た筈。

何故かこちら側の1列、小生を除いて全員がもそもそしている。お陰で目を覚ましてしまった、どうやら4時少し前らしい。そのうちに向こう側7人のうち3人程も起き出したようだ。どこに行くのかもの好きだと、自分の事は棚に上げて思ったりするがもう寝つけない。部屋から人間が徐々に出て行って薄明るくなってくる。残っていた夫婦が起き出して、窓から外を見て最初は「星が綺麗」とか言っていたが、そのうち「槍がどうとかこうとか」言い始めた。流石にタヌキ寝入りを続けられなくなって起き出して外を見た。薄明に小生にも分かる槍ヶ岳のシルエットがくっきりと浮かびがっている。又最高の天気になりそうだ。イッチョマエにカメラを持って外に出る事にする。

元来山に来る人間はもの好きが多いから当たり前だが、小屋の外は大型のカメラを構えた人が大勢だ。中には目の良い人がいて「富士が見える」と教えてくれるが小生にはまだ見えない。小屋には日の出が4時38分と書いてあったが、その時刻になっても東の山が高いのでご来光という雰囲気にはならない。その代わり、反対側の山々ははっきりと姿を現し始める。西から南に薬師、剣、立山、槍等らしい。更にその奥には雲海の彼方に南アルプス、富士、八のシルエットが浮かび上がってくる。年甲斐も無く得も言われぬ感激が湧いてくるから不思議だ。今更ながら、もっと高い所から静かにこれを見たいと思う人の気持ちが少しは分かる。

ぼやぼやしていて朝飯が遅くなるのも叶わないので、5時少し過ぎには食堂の前に立って1番の飯にありつく事にした。小屋の方でも気を使って5時半の予定を早めて食堂を5時10分にはオープン。同室の人達にはかなり遅ればせになったが、新越山荘を目指し5時40分に出発、先ず針ノ木山頂を目指す。急な勾配ではあるが時間的には1時間ほどで山頂に到達。やはり夏は北アルプスでしょう、と言うべき完璧な天気。360度の景観はうまい言葉が見当たらないが、兎に角本年最高の朝!といった気分。新越山荘まで峰を後3つ超えるのだがなんとか行けそうな気持になる。

ここらの尾根歩きは青年やおじさんおばさんアルピニスト憧れの剣立山連峰がずっと同伴してくれる、噂に違わぬ素晴らしい道程だ。しかし降りは岩ばかりなのでかなり神経を使う、本日2番目の峰「スバリ岳」にも順調に到達。降りにかかって暫くした時、又もやスリップ滑落転倒の大災難に遭遇。昨年は上田の烏帽子岳で、その前は南アの北岳で2回滑落経験しているので、2度ある事は3度の例えを恐れていたのだが案じた通りだ。でも死ななくて良かった、と思い起き上がると右膝が破れて血が噴き出している。

これは何とかしなければと思って、ザックを開き救急用品を出し始める。ズボンをたくしあげると、膝から下は血だらけ靴下の上に血だまりが出来ている。包帯やらアロエ軟膏を手にしてみたが、取敢えず血を拭ってウェットティッシュで押さえてみる。当然そんなに簡単に血は止まらない。傷が分からないのに薬を塗るのも何だからと思い、膝をウェットティッシュで抑えて絆創膏でぐるぐる巻きにして固定する。不思議な事にこの時痛みは感じていなかったのだろう、暫くして1グループが追い越しをかけてきた。不思議そうな顔をして「どうしたのですか、大丈夫ですか?」と声をかけてもらったが、「大丈夫です」と答えて先に行ってもらった。

兎に角自分流の応急手当てをして後の参考にと時間の記録で写真撮影、後で確認すると8時33分になっている。当然この時に時刻も確認はしただろう、先ず考えたのは「この傷をこのままには出来ない、どこで手当てをしてもらうか」だ。今日の予定は新越山荘、昼頃には着くだろう。しかし山荘で消毒してもらっても明日になればこの傷がどうなるか分かったものではない。それと山荘の混み具合では休養も十分とれないだろう。それでは頑張って種池山荘まで足を延ばして、明日一番で山を降るか。いやここも混み具合と言い設備スタッフについては似たようなものだ。最善は大町まで今日中に降る事だが、問題は足が持つかどうかだな。

てな事で、兎に角にも先に進むしかないと決断。11時30分に新越に到着したので、昨日同様で芸が無いが又ラーメンを食べて出発。14時半やっと種池山荘に到着。14時に到着していれば、無条件このまま下山と決めていたのだが、30分の延着はさすがに少し不安を感じた。しかしここからは少なくとも登りは無い筈だから、と下山を決心。14時40分から3時間後と言う事で扇沢登山口にタクシーの手配を依頼。水の補給場のお兄さんも心配そうな顔で鍵裂きになって血まみれのズボンを見てくれたが、「お気をつけて!」としか言いようが無いのは良く分かる。

降りも小股でゆっくりが山歩きの基本は良く分かっているつもりで、基本に忠実に歩き始めるが、9時間近く歩いているので流石にきつい。膝の痛みより足全体が棒のようになってくる。降りでこんなに疲労を感じたのは初めてで、昨年秋高妻山に同行した時の弟の気分が分かるような気がした。途中2,3か所雪渓を超えたりするのだが、これで転倒したら一巻の終わりになりかねないと気を使ったし、後ろから足音が聞こえたら無条件脇によって追い抜いてもらう事にした。昨年鹿島槍の帰りにここを降った時はそれほどに感じなかったのだが、今回の長かった事!途中で一昨日前泊したホテルに電話で部屋と夕食を予約、17時40分丁度3時間掛かって登山口に到着。タクシーのシートに倒れ込んで余った飲料をがぶ飲みした。

ホテルにチェックインして、傷口を洗ってもらうべくフロントに行って応急手当のウェットティッシュを外すと出血は止まっている様子。しかしこの傷ではここでの手当てだけでは無理となって、大町総合病院の緊急外来に電話。手慣れたもので、浴衣姿のまま直ぐに駅前の総合病院に送り届けてくれる。当直は若い綺麗な女医さんだが外科ではないとの事、傷口を洗浄してピンセットでごみをつまみ出し化のう止めの軟膏を塗る。傷口はズボンほどではないが、キーボードの縦横倍ぐらいの大きさで鍵裂きになって深く(5mmぐらいかな)えぐれている。本当は縫いたいのだが、怪我をして10時間以上経過しているので黴菌が入ってしまっている可能性もあり、との事で破傷風の注射に化膿止めを塗り、抗生物質を処方して、明朝もう一度来て専門医に診てもらいなさい。との事。

明けて昨日大町総合病院を再訪。包帯を巻かれているせいもあるが、もう完全にびっこ状態。整形外科の若い先生はさすが手際が良い、すかさず麻酔を打って手術に掛かってくれる。即ち余計な皮膚は切り取り、傷口にドレインと言う膿出し用チューブを差し込み5か所ほど縫ってしまう。後で紹介状を書くから、明日これを持って東京で外科医に行ってください。とすごい親切。今日外科医に行くと、「良い仕事をしています。」褒めていたのを大町の先生に伝えたい。

昨晩は早く帰って婆さんに顛末を報告。沢山撮った写真をテレビに映して二人で鑑賞。「大した事が無くて何よりだった。それにしてもこんなきれいな写真は初めてじゃないの、取敢えず一杯ぐらい飲みなさい。」缶ビールと我が家の庭のベリーで作ったフルーツ酒で乾杯。しみじみと幸せを感じた3連休が幕となった。

2010年7月20日火曜日

北アルプス 針ノ木雪渓 7月17日


先週の木曜日の日記に書いた通り、梅雨明けの予感を受けて山行きを決めた。目的地は昨年悪天候のため途中まで行って登頂を諦めた北アルプスの山々である。先ずは計画づくり。自宅の控えと扇沢登山口への提出用に下記の通り作成。婆さんには帰宅は20日になるかもしれないと言っておく。

7月16日 黒部ビューホテル前泊 電話:0261-22-3515
7月17日
 扇沢6:00 → 針ノ木小屋→蓮華岳→針ノ木小屋泊(電話なし)16:00 
7月18日
 針ノ木小屋発6:00 → 針ノ木岳 → スバリ岳 → 赤沢岳→鳴沢岳
 →新越山荘泊 (連絡所0261-22-1263)
7月19日
 新越山荘発6:00 →種池山荘(連絡所0261-22-1263)昼食→ 扇沢着15:30

16日の夜ホテルに入ると物凄い雷鳴が轟いて土砂降りになっている。これこそ梅雨明けの前兆だろう、と一人で良い気分になっていた。明けて17日早朝、これほど爽やかな朝は無いと言っても良い程素晴らしい天気だ。ホテルで握り飯を用意してくれたので、部屋で携行のみそ汁を作って朝飯とする。5時45分予約したタクシーが迎えに来てくれる。年寄りの贅沢感を満喫して扇沢登山口に到着。登山口で用意した届けを提出すると、昨日撮影した写真で丁寧に登山路の説明をしてくれる。昨年のこの連休に比べると、今年は雪が多いので雪渓尻から峠まで直登が可能です、との事。

6時20分出発、長丁場になるので兎に角ゆっくり歩く、しかし朝飯をしっかり食べてきたので大沢小屋はパス。8時20分雪渓尻出アイゼンを履き、いよいよ大雪渓に挑戦する。真っ青の空と白い雪渓、その中に経路を示すピンクの紅がらが鮮やかに浮かんでいる。昨年雨にしょぼくれながら見たなんとなく灰色っぽい印象の斜面を思い出すと、今回は落石の痕跡も少なく、まるで別の山に来たかのようである。雪渓尻では10人ぐらいの登山客が準備をしていたし、既に斜面も何人かが歩き始めている。そのうちの一人に声をかけて記念撮影のシャッターを押してもらう。

昨年は前後に沢山の登山者がいたので落石がある度に、前方から「らく~!」と大きな声がリレーされてきた。中には一抱えもある大石が傍を落ちて来て肝を冷やしたりした。今年も前日までの大雨だったので、これが一番怖かったが、幸い落石には一度も遭遇しなかった。登山口の説明で、大岩の付近で1か所だけ雪が緩んで少し歩きにくい所あり、だったが、全体的に雪渓はしっかり締っていたので比較的歩きやすかったと言える。しかし2000mを超える辺りからだと思うが、段々歩みが鈍くなる。特に最後の急勾配(標高差にすると150m程だろうか)はさすがきつかった。大概どこに行っても同じだが、小生には2000mあたりが限界で、ただでさえ遅い歩みが一層遅くなる。

今シーズンは歩きながら水分補給が出来る仕掛けも用意したので、なんとか止まらずに歩きたいのだが、ゴール間近では5歩歩いては立ち止まり、10歩行っては又上を仰いで立ち止まるような風情だ。下で追い越してきたグループに抜かれる悔しさに情けない思いもあるが、仕方が無い。兎も角3時間近く掛かって意気も絶え絶えに11時25分やっと峠に到着。

早速針ノ木小屋にチェックイン、受付のおじさんは昨年の事件を覚えていてくれた。丁重にお礼を言ったからでもないだろうが、「かもしか」と言う7人2列の小じんまりした部屋の奥で、布団1枚を独占できる牢名主のような席を用意してもらう事が出来た。既に入っていた3人はやはり布団を独占できる体制であったように記憶するが、案内してくれた山ガールのお姉さんが言うには「布団1枚はこれで最後です。今日はきっと混みますよ。」案の情だ。兎に角山小屋は早い時間にチェックインだけ済ましてしまうことが肝要だ。

今夜の居場所を確保できたので、客が一人もいない食堂に行って先程の山ガールお薦めの最高級ランチ「針ノ木小屋特別ラーメン」1200円也を注文、缶ビール片手に昼飯にする。北アルプスの雄大な景観を眺めがらの缶ビールは何とも言えないうまさだ。チェックインをしている先客も数人居るのだが、部屋で寝ているか、既に蓮華方面に出かけているのだろう。一人しかいない客なので小屋のアルバイト達と雑談、7月1日にオープンしてずっと天気が悪かったようだ。しかし夕べの麓、大町での落雷と雨は峠には来なかったとの事。兎に角、山の天気は、彼等ベテランにも分からないようだ。

ビールを飲んで一休みしてから蓮華に行こうと思っていたが、それは良くない考えだと注意されてしまった。今晴れていても山頂の天気がいつ急変するか分からない。「幾ら往復2時間と言っても馬鹿にしてはいけません、雨具だけは必ず持って行って下さいよ。」この話を聞いて食後の一休みはお預けにして12時半に再び山登りを開始、蓮華岳に向かう。前から花の山とは聞いていたが、山頂付近はコマクサの群生とミヤマキンポウゲとヨツバシオガマ同じ場所で群生しているのが印象的だった。更にラッキーな事に子連れの雷鳥を写真に撮る事が出来た。これは夕食後相部屋の人に大いに自慢が出来た。


もう一つ感心したのは、昼にあんなに晴れていた天気が1時半頃になると急に雲が出てきて雨が降り出した事だ。小屋で注意されていたので雨合羽は持っていたのだが、シャツは元々汗でぐっしょりだから合羽を出さずに降り始めた。しかし登ってくる人は勿論、降り客も殆ど合羽を着用している。確かに一時かなり強く降る気配はあったが、結局小屋に就く頃は雨はやんでいた。着ていたものを乾燥室に入れ、厚着に着替えて再び外に出る。足元から始まる雪渓の急勾配は、よくこんな急な所を来たものよ、我ながら感心してしまう。もう夕方と言うのに未だ喘ぎながら登ってくる人を見ながら、この人たちはどんな計画で来たのかと余計な心配をしたりするのも面白い。西北に連なるアルプス連峰は雲間に殆ど隠れているが、明日の天気を祈りながら又ビールを飲む。

夕食は5時半、我が部屋が1番に呼ばれたので明るいうちに終わってしまった。消灯は多分8時かもう少し遅いと思うのだが、みんな行儀が良い人ばかりで、7時前には電気を消して全員寝てしまった。

<続く>

2010年7月15日木曜日

山の遭難 罪つくりの「ためしてガッテン」

昨日風呂から出ると婆さんがテレビを指して言った「今日はこの番組を見るべきよ。」いつもは他局のクイズ番組を見ているのだが、爺のためにNHKのこのチャンネルをつけておいたのだそうだ。何でも山登りに関する事らしい。少し間に始まったばかりで「山登りでばてない秘訣」を放送中だった。確かに興味深いタイトルでもあるのでそこから終りまでじっくり見てしまった。山登りのお勧めに異論はないが、あまりにもやらせが過ぎる。

テレビメディアは恐ろしい。見ているとまるで山登りで「疲れない術」があるかのようだ。何でも登りは鼻歌を口ずさみながらマイペースで歩き、降りは地下足袋に履き替えて小幅で降りる。鼻歌を歌いながら登れば、筑波山でも1時間で楽に登れて全く疲れないみたいだ。昔の記憶を確認するためにmixi06年7月15日の日記を読み直した。こんな時日記は役に立つ。登山口から山頂まで1時間半掛かっている。記憶でも高尾山とは違って標高があるだけにかなりきつかった記憶がある。

幾ら小生が遅いと言っても、NHKから出演を依頼されたその辺のおばさんの1.5倍も時間が掛かる筈は無い。山小屋のホームページには、インターネットで見た行程(時間)を鵜呑みにしないように、と言う注意が良く出ている。しかしこれはテレビ番組、しかも撚りによって「ためしてガッテン」である。「これを見た大勢の視聴者が、その気になって安易に山に行く事になるだろう。」は婆さんの言だが、全く同感だ。

いくらかでも経験がある人なら「ばてない山登り」なんかあろう筈が無い事は分かると思う。ばて方を軽減する策に、小幅で歩くとか出来るだけゆっくりしたマイペースを保つ、といった常識的な注意に留めるなら山歩きの専門家でも許してくれるだろう。これから夏本番で山に行こうと言う人が増える時、タイミングを計った企画のつもりだろうが、山の遭難を心配する人達からしたらとんでもない企画だ。

何が「疲れ吹っ飛ぶ!ガッテン流山登り」だ。危険が一杯の山登りで危険を出来るだけ最小化するために必要な基礎体力づくりとか登坂開始前の準備(これが一番肝心かもしれない)とか、科学的に面白く解説できる事は山ほどあるだろう。出演者に罪は無いのだが、皆お利口さんに見えるだけに余計腹立たしさえ感じてしまった。そもそもこの番組は、小生が現役時代開発に関わりNTV系列で放送されている「目が・テン」のパクリ企画だと思っている。

その後天気予報を見ていると今度の連休は梅雨明けになりそうだ。先週あたりからこの連休をどうすべきか思案をしていたところに、愚かにもこの番組であっさりと火をつけられてしまった。今日改めて新潟・長野・富山の天気予報を確認すると土曜日から3日間は天気が持ちそうだ。昨年の連休は土砂降りで酷い目にあったので、再挑戦をする気になってしまった。従ってブログは連休明けまでお休みにします。

2010年7月14日水曜日

どこへ行くのかな日本は

国会が始まらない事には分からないが、民主党はこれからどのような方向に舵を切るのだろう?検察審査会の結論が出るまで小沢一郎氏は動けないようだが、再び起訴相当の結論が出る可能性も高いようだ。今潜伏している彼がこれで半永久的に表立った活躍が出来ないとなると、益々混迷は深まるだろう。何れにせよ民主党内のごたごたに加えて、国会のねじれが国民に信をと言う事態にもなりかねない。些か辟易のきらいはあるが、再び総選挙をしてどこが勝っても、結果的には国民が消費税10%にお墨付きを与える、と言うつまらない結果になりかねない。

検察審査会の結論が不起訴相当になれば少しは違ってくるのかもしれない。彼は菅氏の路線に不快感を示し、国民との約束は守るべきだ、と言っていると報じられている。政治家の言は余り信用できないし、政治の世界は何でもありだそうだから、小沢一郎がどう出るか全く予想がつかないが、彼が動けばそう簡単に消費税アップにはならないような気がするし、そう期待したいところである。

2010年7月13日火曜日

メディアの嫌らしさ

就活てなんだ?

最近は今まで聞いた事のない言葉がテレビから飛び出してきても、いちいちびっくりしていられない。「就活」もその一つで放送局のアナウサーでも評論家でもごく当たり前に使っている。「就活予備校」なんてものまで出来ているようだ。学業を終えたと思う人間が、就職先を求めて会社訪問をしたり企業の就職試験や面接を受けるのは、日本では昔から当然の事で不思議はない。ところが、最近の報道によると再来年3月卒業予定の大学生諸君の「就活」が既に始まっているらしい。

となると、大学3年生の夏休み前に既に就職活動が始まる事になる。これは少しおかしくないだろうか?大学4年生の夏休みに田舎に帰った時、友人の殆どが就職先が決まっていたのに、一人就職先が無くて淋しい思いをした事を思い出すと、早く決めるに越したことが無い事も少しは理解できる。確かに大学で学んだ事が就職先の仕事と関係が無い場合も多い事も事実だ。しかし大学に入った以上、専門課程の学科に関して何一つ履修出来ないうちから就職の心配をしても始まらないだろう。

バブル期の学生青田刈り全盛の時期を経て、就職氷河期が始まり、一時はITバブル期に理系を学生が主だったようだが需給バランスを持ち直したものの、直ぐに氷河期に戻ってしまったようだ。一般論で言えばそうかもしれないが、全ての企業が毎年の新卒採用を止めている訳ではない。そんな事は学生の大部分は先刻承知だろうが。優秀な人は就職できるが、そうでない人はアブれてしまう。我々の頃は非常に少なかった就職浪人の割合が、年々増え続けるのが現実だろう。

それに悪乗りした奴が「就活予備校」なんてものをおっぱじめる。本業の学業をさておいて就職面接のためのテクニックかどうか知らぬが、指導を受けてどうするのだ。広い社会で通用する普遍的な面接の術なんかある筈もない。どうせ学生の減少で収益の下がった学習塾経営者辺りが思いついた詐欺的な商法の一環だろう。メディアがマジで取り上げるから青年達が「面接術」があるかと本気にしてしまう。嫌な世の中だ。

選挙関連報道

ついでに最近の政治、特に今度の選挙結果を通して思う事だ。単語としての「テレポリティックス」 が米国で出現したのは遥か昔の事で、直ぐに日本に輸入され政治家がテレビを利用して大衆動員を図る意味で使われてきた。しかし民主党政権になって以来のテレビや新聞による政治報道は、この意味とは意味合いが異なり、逆にメディアが政治家を動かすようになりつつあり、それが少し常軌を逸している。

昨日の夜9時のNHKニュースに仙石官房長官が出演して、菅総理の発言のぶれについて話していた。曰く「最近は毎週のように新しい世論調査が発表され、気にしないでおこうにもそういう訳にはいかない。テレビの政治報道のスピードについていけない、というか煽られてつい発言の修正みたい事になっている。」と言った趣旨だったと思う。確かにそういう面はあるだろう。

聞いていて問題だなと思ったのは次の事だ。政党や政治家がメディアを操作するのは意識的にする事だから仕方が無い。むしろ現在のようにメディアが結果的に大衆を操作している事を、メディア人がどこまで自覚しているかと言う事である。恐らくは自覚はあるまい。常に自分は公正な立場に立ち、事実と公平な取り扱いでの意見を流しているとしか思っていない筈だ。故に却って始末が悪いのだ。

今回の選挙も最低の投票率で、票数的には2番手の民主党を遥かに下回る自民党が獲得議席数のトップになった。これは厳粛な事実だから仕方が無いとしても、「民主敗北・自民大勝利」と一斉に特筆大書する嫌らしさ。この事に嫌悪を覚える小生が異常なのだろうか?選挙が終わると、数合わせの政局論ばかりが溢れ、各党が口を揃えて叫んでいた「国会改革・議員定数削減」に関してのコミットは見事にメディアから消える。これを政治家はどのように見ているのだろうか?

<自らの愚かさに気がつかないメディア>に左右される我々の行く末を考えると怖いものがある。

2010年7月12日月曜日

高尾山ハイキング (遠き日の思い出)


10日の土曜日、いつも通っているジムの定休日でプールに行く事が出来ない。午後からは碁会所に行けるのだが、遅めの朝食を済ませて改めて外を眺めると梅雨が明けたような快晴である。昼過ぎまで家の中でボヤーとしているのが勿体ないと思い始めた。とは言っても既に9時半である、これから行けるところと言ったら高尾山しかない。

慌てて小さなザックを引っ張り出して準備、昼飯はコンビニで買う事にして「行ってきまーす」。新宿発10時20分の京王線に間に合ったので11時15分には高尾山口に到着。山歩きには些か遅い時刻ではあるが、天気が急に良くなったせいだろうか、家族連れのような人が多い。鶯の鳴き声を聞きながら杉の大木に囲まれ舗装された参道をゆっくり登る。

途中で小学校5,6年生くらいの子供を叱りつけている親子連れに遭遇。ピッチを上げ過ぎて子供がばててしまったようだ。可哀そうに子供は足が前に出ずに泣いている。「頑張れ!」とか「もう連れてこないぞ!」馬鹿親が言っている。

この子と同じような年格好の時、ある冬の日冬遊び仲間数人で市街地から2~3キロ離れた山(小角ヶ原)に初めてスキーに行った時の事だ。口先だけは達者だったが一番チビで体力も無かった小生は、普段滑り慣れていた坂道を通り過ぎると、ものの数百メートルで急に足が前にでなくなってしまった。前を行く友人から「早く来いよ!」と言われて悔しいけど泣き出した経験がある。結局仲間内で一番大きかった友人が「何だ、だらしがねーなぁ。よし俺がスキーを担いでやる。」と助けてくれた事が未だに記憶に鮮明である。

だから、あの子の気持ちは嫌なほど分かる。親父が何と言っても足は前に出ないのだろう。最近は学校でも遠足などの行事が減っているようだ。坂道を何十分も歩き続ける何て事はおそらく初めての経験だったのだろう。何でもそうだが、世の中には経験しないと分からない事が正に山ほどあって、山歩きのペースメーキングはその最たるものだろう。普段元気活発に動き回っている小学校高学年の子供の方が、ペースが狂う危険が大きいのかもしれない。

最近はどこの山でも子連れの登山者を見かけるし、子供は大抵見るからに元気そうな場合が多いが、珍しく自分の遠い日を思い出す光景に出合った。何事も初心者を指導する立場になったら、先ず楽しさ面白さを十分味あわせる事が肝心だが、つい自分の楽しさ面白さが世界共通だと思ってしまう。時々孫とスキーに行ったり、子供に囲碁を教えたりする爺もこれは十分自戒しなくてはいけない。

高尾山は我が故郷の飯縄権現の末社でもある。本院、奥の院と順番にお参りして山頂でゆっくりと昼食。昼過ぎになっているので富士山こそ見えなかったが、青空に遠くの山並みが連なる景色を堪能。稲荷山コース経由で下山。14時28分の電車に乗って4時過ぎには帰宅してしまったので、「帰宅が早すぎる」と叱られてしまった。

2010年7月9日金曜日

冴えない選挙戦

このところ連日のようにサッカーのワールドカップや相撲界の不祥事件が大々的に報道され、選挙関連の報道はすっかり影が薄くなっている。明後日はもう投票日であるが、目につく関連報道は各党の獲得議席数予想ばかりで、この選挙の持つ意味をついて真面目に取り上げた報道にはついにお目に掛からなかった。見方を変えれば、この参議院選挙、参議院そのものが我々一般市民から見てさしたる意味が無いのだろう。

選挙が始まってから突然湧き出た「消費税の増税」が恰も最大の争点の如く喧伝されるが、誰一人共産党ですら「消費税の減税」は唱えない。これで選挙の争点と言えるのだろうか?連日豆腐屋でもあるまいに1丁2丁と兆単位の話がメディアに載るが、報道をする側受け止める側共に理解出来ているのか大いに疑問に思う。そもそも財政問題なんてものを本当に分かっている政治家はどのくらいいるのだろう?ましてや庶民は、少なくとも小生は全く分からない。

民主党が本当に経済政策に自信があるなら、自民党に悪乗りせずに「消費税の減税」位言ってもらいたかった。消費税1%が約5千億円とすると、消費税2%減税しても高々1兆円ではないか。この数字自体正しいかどうか勿論分からないが、元々大盤振る舞いをしてきたついでなんだから1兆円ぐらいどうという事は無いじゃないか。小生だったらそう考える。財政問題は歳入の心配をするより、歳出の無駄の削減が先で、道半ばであることを素直に言うべきだった。

自分で検証したり考える能力と責任を取る心構えが無いものだから、嘗ての政権と同様財務省の役人辺りに取り込まれたとしか考えられない。結局のところこの選挙は勝者不在の結果に終わり、政治の混迷が続く事になるのだろう。お役人からすれば「それ見た事か」と快哉を叫ぶだろうが、庶民がハッピーになることはなさそうだ。どの党も議員定数の削除については訴えているが、これも喉元過ぎればの話だろう。実に空しく冴えない選挙だ、日本の宿命かもしれないが情けない事だ。

2010年7月8日木曜日

梅雨の晴れ間 快晴

久し振りの梅雨の晴れ間である。

青空を拝むと山に行きたくなる。
今日はこの前の日曜日に富士登山をしてきた人から話を聞いた。東京は結構不安定な空模様だったが、富士山は写真を見せてもらっても快晴だったようだ。
昨年行った北アルプスの山小屋のホームページを開くと、やはり月曜日撮影の写真が掲載されている。小屋周辺の雪は殆ど消えている。

梅雨明けの予報はまだ出ていないが、列島の背骨に位置する北アルプスは日曜日の富士山同様で梅雨の影響が少ないのかなぁ。思わず来週にでも飛んで行きたいと思うのだが、昨年は「海の日」に登って大雨だった。思いが千々に乱れる。

読後感「デフレ不況 日本銀行の大罪」田中秀臣 著

前々から何度も書いているが、経済学が分からない。諸説あって、誰かの本を読むと、その時は成程と思うのだがどこまで信用できるかは自信が無い。著者についてはリフレーション論者としてそれなりに知名度もあり、ウェブの世界でも活発に活躍しているそうだが、小生がその説に接するのは初めてである。

菅元財務相がデフレ宣言をしたのは民主党が政権を取ってからだからそんなに古い話ではない。著者はここ20年来の不況(途中一瞬の回復気配はあったが)は日銀が適切な金融政策を取らなかった所為であり、とっくにデフレスパイラルに入っていると端的に断罪している。日銀は日本銀行法に定められている理念「通貨及び金融の調節を行うに当たって、物価の安定を図る事を通じて国民経済の健全な発展に資する」を放棄して、官僚的な自己保身に汲々とするだけで国民経済の悪化について極めて無責任という趣旨である。

勿論国民経済の立て直しは金融政策だけではなくて財政政策との協調も必要である。もっと早くから緩やかなインフレターゲットを設定した政策転換を図るべきであったし、今からでもその政策を取るべきだ。が著者の言わんとするところだろう。なのに日銀はいつも、取るべき政策手段は既に目一杯実行している、との言い訳に終始している。しかしやるべき事は何もしていないのだ。やったにしてもばかりである。

著者が言わんとする政策的な事についての妥当性は判断しかねるが、一つ共感を覚えるのは、日銀の幹部が経済の専門家ではなくて経済学に基づく十分な見識を持ち合わせない事である。日本の場合殆どが法学部の出身であるが、先進諸国の中央銀行幹部は殆ど経済学の泰斗のようだ。要するに官僚だから、過去についての反省が伴わない無謬の原則で、意味不明の言い訳を並べ辻褄だけを合わせてその場をしのぐ。

この行動様式は正に事実だろう。日銀マンの行動様式について非常に親しい人間から同様の話を聞いた事がある。著者が力説するリフレーション政策が正しくないとしても、日銀マンの根本的ビヘビアが治らない限り日本の経済が良くなる筈もない。

2010年7月7日水曜日

読後感「墨染の鎧」上下巻 火坂雅志 著

2009年NHK大河ドラマ原作『天地人』で一躍脚光を浴びた著者の作品を読むのは初めてだが、大変面白かった。学生時代から歴史小説家を目指していたとの事で、22年前のデビュー以来数多くの歴史小説を発表している。54歳だから未だ書き盛りであろう。

主人公安国寺恵瓊の活躍は戦国時代、お坊さんでありながら毛利藩に仕えて、使僧(他国との外交交渉の任に当たる)として全国を飛び回り、情報を旨く管理する事で元就公の毛利藩の安定に貢献して、尚3人の息子達からも一目置かれる存在になっていく。と同時に他国大名などからも着目され、特に織田の部下であった羽柴秀吉とは互いに信じあう関係に迄なり、終には四国に領地まで与えられ大名にまでのし上がってしまう。秀吉亡き後は石田三成と手を結び互いに助け合うが、最後は本家の毛利輝元を西軍総大将に担ぎ出し関ヶ原の戦いに挑む事になる。

しかし皮肉な事に恵瓊が子供時代から面倒を見たと思い、軽く見ていた(西軍として戦うのは当たり前)毛利支藩の吉川広家、小早川秀秋両軍の寝返りで負け戦となってしまう。恵瓊自身が生涯かけて行ってきたように、戦国時代の調略合戦は凄まじいもので、この期に及んでは家康側の調略が優っていたことに他ならない。結局彼は三成と同様捕えられて、堺大阪引き回しの上京都六条河原で斬首、三条大橋のたもとで晒し首と言う極刑(武士としての最後に切腹を許されない事)で終わる。

歴史を知らなすぎるからかもしれないが、時代小説は歳を取っても面白い。安国寺恵瓊が西軍の責任者として最も重い斬首の刑にあった理由がやっと分かった。
戦国時代の下克上では尾張の百姓の倅が関白にまでのし上がったりして、出世物語が数多いが、家来と言う者を一人も持たずに一代にして大名に成り上がったのはこの恵瓊一人ではなかろうか。著者は歴史に一つの疑問を抱いて、大きな脚色を試みている。

安国寺恵瓊は、安芸武田家が毛利元就に攻め滅ぼされた時に落延びた武田家の忘れ形見である。それが安国寺で育てられ、長じて坊さんになってから仇の元就に見いだされて恩讐を超えて毛利家に尽くした。歴史的にはとされているようである。著者は考証していく中で、これを裏付ける資料に乏しい事から、そうではなくて一緒に落ちた家来の倅が、殿様の息子が夭折したのを幸い、若い時にすり替わって生涯嘘を貫き通した、としているのだ。

生涯かけて虚々実々の駆け引きで、諸国を手玉に取って来た主人公の生い立ちには実に相応しい設定である。それにしても通信手段が現代とは比較にならない時代の戦国時代でありながら、大名侍は情報を得るのにどんなに苦労をした事だろう。恵瓊は禅宗の寺で修行している。鎌倉以降武士の間で禅宗が広く普及した事は知られている。恐らくこのネットワークが重要な役割を担ったのかもしれない。武士が戦の度に寺院や坊さんを破壊殺戮しながら、直ぐに復旧するのが不思議でならなかったが、少し納得したかもしれない。

恵瓊が信長の全盛期に使僧として面会の後の報告に、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いた事はあまりにも有名である。信長の転落と同時に秀吉の躍進を予想しているのだが、この小説では、本能寺の変に際し秀吉の中国大返しを可能ならしめたのは恵瓊自身の演出としている。

当時各大名にはそれぞれの使僧が居て、他にも殺された事で有名な僧が何人か居る。流石に大名に迄なったのは彼だけかもしれないが、広田弘毅が大戦開戦時に外務大臣であったために絞首刑になったのとは少し違うようだ。

2010年7月6日火曜日

1万歩へのチャレンジ

昨夜は東京でも久し振りの土砂降りの集中豪雨でかなりの被害も出たようだ。今日も似たような天気と言っている割には日中は晴れて蒸し暑い。

昨日今日と2日続けて国会図書館通いをしている。事務所から池袋まで地下鉄2駅分を歩いて、そこから地下鉄に乗って永田町で下車。図書館で昼食を取って2,3時間読書や居眠りをして、帰りは事務所までフルに地下鉄を利用して帰ってくる。この間歩数にして約9千歩、距離的には約6kmと言ったところだろうか。途中に階段の登り降りが合計すると片道約200段程あるかもしれない。何れにせよ結構な運動量で体中汗だらけになってしまった。事務所に着替えのアンダーシャツを用意すべきだった。

この所為かどうか分からないが、今事務所に帰って汗をぬぐってさっぱりして見ると、先週ずっと整体に通ってもなかなか治らずに続いていた肩と腰の痛みが大分薄らいだ感じだ。適度な運動で汗をかくのはやはり治癒効果があるのかもしれないし、たまたまその時期が来ていただけかもしれない。こんなメニューを毎日こなせれば結構な話だが、昨日と今日は諸般の事情からたまたま同じ行動パターンになっただけで、そう旨い具合に継続できるものではなさそうだ。折角だから今後は1日の歩行数目標を今迄の7千歩以上から7千歩以上に格上げしようと思っている。

数年前掛かり付けの医者から同様の趣旨を言われた時には「先生、それはとても無理です。」と反論したものだ。それが今になって見ると大した事でもなく、やって見れば出来るものだと一人で納得している。

チャレンジ繋がりで似て非なる話題

昨日若いスタッフと食事をしながら雑談をした時の事。楽天市場やユニクロの「社内公用語を英語に変更」の話から、現代の若者が海外留学や海外派遣を敬遠しがちな事に話が及んだ。一番若い人に言わせると「無理をして海外にまで行って何かに挑戦しようとか、何かを習得しようと言う気が起きない。日本に居ても海外の事は大抵わかるし、海外に行って学べる事は少ないのではないか。第一、居心地は多分日本がベストだろうと思っている。」因みに彼は若い時アメリカ人について英会話を学んだり、英語で論文を書くトレーニングをしたにも拘らず、未だに渡米経験は無いとの事。

しかしビジネスの世界で公用語が英語になるのは勿論賛成している。このあたりも小生とは異なり(小生は日本の会社は日本語だけで良いのではと思っている)、かなり現実的かもしれない。年令が半分以下のこの青年は我々の世代とは明らかに異なる思考回路が存在している。このような意見に対してもっとチャレンジ精神を持つべきでは、と反論したいのだが、どのように理論を組み立てれば説得できるかが分からない。もう少し年上の青年は「外国の町に着くと明らかに匂いが違うのだよ。」要するに感覚の違いが重要と説得してくれたが、どこまで彼の心に響いたものやら。

2010年7月5日月曜日

読後感『戦後にっぽん覚え書〈5〉1961-64(昭和36-39年)―朝日新聞「今日の問題」 (1983年)』

大学3年生から就職2年目ぐらいの間の日本社会。未だ新聞もろくに読んでいなかったし勿論テレビも無かったので、自分の記憶はさておいて実際に世の中ではどんなことが話題となっていたのだろう。そんな興味から図書館から借りてきた書である。朝日新聞夕刊に毎日掲載されていたコラム「今日の問題」からの抜粋で、1月当たり2編ずつ程度掲載されている。朝日新聞では論説委員が執筆するコラムが4つあり、「天声人語」や「素粒子」特定の執筆者が決まっているが、このコラムは論説委員全員が担当してが執筆している。故に「天声人語」と「社説」の中間に位置して、社説よりも取り上げる幅が広く、長さは両者の中間で、執筆者の個性が出るエッセイ風となって閲読率が高いとされているそうだ。

本が出版されたのは1983年だが、印刷活字が未だかなり小さい。1961年の記事に「国際TVリレー」がある。モスクワからの「宇宙飛行士ガガーリンモスクワ入り」を伝える映像がロンドンに生で送られた件についての記事である。「同じ一つの出来事を、国境を隔てた人々がテレビを通じて同時に視聴できる事は素晴らしい事」と書いている。当時我が国にこの事が知らされたのは4日後だったらしい。各国協力による極東の我が国に迄のテレビリレーは未だ遠い先の事らしい、とも書いている。

他にも電話に関する件で、我が国には電話は600万個近い電話がある。と書いているのもある。1964年の話で、未だ大都市以外の大部分では電話が自動化されておらず、市外電話の殆どは交換手を呼び出差なくては用が足りなかった時代の事だ。タイトルが「11秒のイライラ」となっている。即ち交換手を呼び出す時、相手が電話に出る迄の待ち時間について我慢できるのは国際的に11秒とされていたらしい。この2編については何れも当時と現在に隔世の感を否めない。

一方1962年の記事に『沖縄の旗』と『沖縄船の「旗国」』と言う記事がある。これは当時日本に復帰していなかった沖縄の船が船籍国を表示するために掲げる旗が無くて(日本の国旗を翻す訳にはいかず、さりとてアメリカ国旗を掲揚する事も許可されていなかったらしい)、インドネシアで銃撃が起きた事件を取り上げている。この事件は小生の記憶に全く無い。現在はそのような悲劇は起こらない形にはなっているものの、半世紀を経過して未だに解決できていない問題がある事について思いを新たにしたりした。

半世紀前について、自分の認識とは異なる角度から思い返してみる事ができて大いに得るところがあった。

2010年7月2日金曜日

世の中分からない事だらけ

今週は月曜日の夜に宴会があり、睡眠不足で火曜日の朝を迎え、その上月末月初の忙しさが重なったのですごく疲れた1週間であった。やっと週末を迎えたと言う感じだ。

昨日の報道によると一昨日は公務員にボーナスが支給されたとの事、そして日本の経済は回復基調だそうだ。ボーナスと言う言葉自体懐かしい言葉になってしまった。自動車や家電製品が良く売れているが土地の値段は全国的に下落が続いているらしい。一方株価も今年最安値を更新している。このような統計の意味するところや景気の判断もよく分からないし、日本経済を立て直すと言う経済そのものの意味もよく分からない。

選挙演説では各党とも経済を立て直すと言っている。経済そのものが良く分からないのだから、何が原因でどの程度に悪くなっているか分かって言っているのだろうか?多分誰も分かっていないのだろう。それが証拠には経済を立て直す方法論を具体的に述べている党は全くないし、財界の人間もジャーナリストも同様である。一方で税制論議のようなものがあるが、明確に理解できるのは共産党の言い分くらいだろうか。他の党については消費税を結局上げなくてはならない事では変わりがないようだ。違いがどこにあるか判断しにくいのでは?

消費税については逆進性とかで、「これ以上税率が上がると生活が成りたたくなる」とコメントをする人が必ず登場するが、テレビ局はこういう人を何処で見つけてくるのだろう。もし月に10万円の支出をして5千円の消費税を支払っている人だとすれば、正味で95,000円買い物していたのが90,000円しか買い物ができなくなる勘定だ。月の買い物(支払い)が5千円分の節約できなないなら、現在でも生活は成り立っていないのだろう。少なくと小生それほど金持ちでも貧乏でもないが、5%程度買い物を控える事は何でもない。極端に言えば直接税を5%安くしてもらった方が有難いかもしれない。

誰を取っても国の将来なんかケセラセラくらいにしか考えていないようだ。勿論小生も同じである。そんな事より社内公用語を英語にする日本企業が増えている事の方がよほど気になる。そのうちに社内公用語が中国語なんて会社も出てくるのだろうな。益々世の中の事が分からない。



2010年7月1日木曜日

温故知新

バタバタとしながらもう半年が過ぎてしまった。今年は暇が出来て大分楽になるかと思っているが、今のところそう旨い具合に運んでいない。4月以降図書館通いの毎日を期待したのだが、3ヶ月で5日ぐらいで読書量もずいぶん減っている。一昨日ある会社の社長に新社長を紹介して、私はリタイアします、と挨拶をした時「まあ、なんて羨ましい!」と言われた。確かに違いない筈だし自分もそう期待はしたが、掌を返すように旨く行くものではない。最近は内閣の交代も同じだろうと思っている。

今日は起きる直前、右膝からつま先まで激しいこむら返りに襲われた。今までのこむら返りは大体ふくらはぎだけで、つま先の親指から揉みほぐしていけば大体すぐ直っていたものだ。しかし今朝のそれはつま先まで硬直して痛く、揉みほぐす事も出来ない。午前中整体に飛び込みマッサージを受けながら質問するが、整体士も原因について明確な返事が出来ない。リタイアしても疲労の蓄積は続いていると勝手に解釈することにした。

昨日食事をした友人10歳ほど若いが、は毎日6km程ジョギングか歩く事にしているそうだ。小生も歩く事については心がけており、毎日延べで3~4kmは歩いている筈だ。それで疲労が溜まるとは情けない。これからのコンディションの整え方についても考える必要がありそうだ。整体の後、日本橋の方まで仕事に行き、帰ってからまた新社長と二人で新規案件のプレゼンについて業務引き継ぎを兼ねた打ち合せ。

嘗て行ったプレゼンや見積りを引っ繰り返しながらの事である。設立以来7年しか経っていない会社ではあるが、時代の変化に伴う競合環境の変化については改めて感じるところが大きい。故事来歴との整合性を取りながら新規ニーズにこたえていく必要があるが、過去の事には責任の無い新社長には厳しい面と、成程と思う事の両面があるに違いない。

どっちにせよ温故知新で局面を打開していくのを祈るような気持ちだ。